第183話 身体を消費する

文字数 2,619文字

 天真爛漫で多くの友人に恵まれた人気者……彼女は長男に後れること4年、1950年に生まれた。兄がピアノの練習に精を出す傍ら、彼女といえば楽器は何をやっても続かず、すぐ野球をしに出掛けてしまうような活発な性格だった。そんな彼女が唯一本気になれたのがハイスクールのマーチングバンドで出合ったドラムだった。しかしドラムを担当する女性など当時は数少なく、「女のやることじゃない」と両親は反対した。その両親を説得して兄のバンドのドラマーに就任したのが、彼女のキャリアのスタートだった。

 1966年、初めて契約しようとしていたレコード会社が、両親も、そして彼女自身も自覚していなかった才能を見出した。
「バンドを売り出すためにはボーカルが必要だ」と説得された兄は、あるとき急遽、妹に歌わせることにした。妹の才能を知っていた兄が披露させた天性の歌声は比類のないもので、レコード会社は妹とだけ契約を結ぼうとした。しかし兄の才能しか信じていなかった母親は、反対する。
 母は「女は主婦としての能力があって一人前」と考えていた。息子のためならLAに一家で引っ越しすらする一方で、自分が一度過小評価した人間の価値が上がることを認められず、知らず知らずのうちに才能を潰してしまう多くの人たち同様、お転婆で男勝りな娘がドラムを始めるときも、歌手デビューするチャンスにも立ちはだかった。母親は、この後一生涯、娘が類まれな才能を持っていることを認めなかった。
 
 こうして音楽界の大舞台に姿を現したことで、人々の注目を集めるようになった。しかし皮肉なことにそれが彼女の命を縮めることになる。
 あるとき、地元紙が彼女のハイスクールでの写真を差し「chubby sister」と紹介したのだ。
「太っちょの妹」。思春期の頃から体形を気にしていた彼女は、このことで食事に対して非常に気を使うようになっていった。さらに、彼女の才能が体形へのコンプレックスに拍車をかける。
 子供が大好きで、彼女自身も子供のような無邪気さと純粋さを持ち周囲の人から好かれていた。一方で自らの体形については太りすぎという固定観念を持っており、やがて精神的な病となっていった。事実、その頃の彼女は平均的な女性と比較してぽっちゃりしていた。彼女の身長は163センチで適正体重は58.45キロだが、彼女の体重は最大66キロに達していた。彼女は「絶対に痩せてやる」と発奮しダイエットに励むようになったが、それが彼女の寿命を縮める結果となった。
 ダイエットのためケーキを出されてもほんのひと口かじるだけの生活。この頃、食事の場は彼女にとって、皿に乗っている食べ物を右に左に転がすための場でしかなかった。減っているのはコップの中の水だけ。周囲の人たちの望む姿になるべく、痩せ続けていった。

 日本でのツアーを終えて、兄妹が建ててあげた両親の家を訪れると、彼女がわざわざ買ってきた着物を母は興味なさげに早々に片付け、新居の案内を始めた。母は娘をないがしろにする癖を止めることができなかった。当時、ドラマーはほぼ男性しかおらず、女性のドラマーとして表舞台に立つ娘の行動は許せなかったのだ。
「結婚するまでは女性は家を出ない」ことがマナーだと信じていた保守的な母は、娘の自立すら阻み、一人暮らしも認めなかった。兄の説得で仕方なく兄妹同居という形でようやく認めたが、娘のプライバシーを絶対に作らせないよう画策した。
 発散されることのないストレスと、栄養不足からついに彼女の体は限界を迎える。コンサート中の舞台の上で意識を失った。コンサートは中断、病院へ運び込まれた。ベッドの上に横たえられた5 フィート4インチ (163cm)の体重は平均体重より16㎏下回っていたため、医師はドラッグを疑ったが、彼女が別の病に蝕まれていることに誰も気づかなかった。なぜなら彼女は休むことなくランニングやエクササイズの日課をこなしており、どこからどう見ても「健康的な生活」を送っているようにしか見えなかったから。その生活がたとえ彼女の過度な脂肪への恐怖によって支えられていても……
 なんとか回復した彼女は、実家に引き取られた。家族で退院を祝い、仕事も順調にこなし始め実家で過ごした久しぶりの家族団らん。しかし、食卓に出てきたものは、兄の好物だった。家族のため、必死で少しずつ食事を口に運んだ彼女は、母の足元にくずれ、こう懇願したという。
「私のママになってよ」

 1980年、若手実業家のトム・バリスと結婚をしたが、翌年暮れには破綻。離婚同意書にサインする直前(約束の6時間ほど前)に彼女が死去したため、現在も既婚のままとなっている。
 1983年2月4日早朝、両親の家で意識不明になっているところを発見され、同日死去した。満32歳没。死因は急性心不全。長期の闘病生活が心臓に負担をかけていたと思われる。
 なお、映画『カレン・カーペンター・ストーリー』によれば、晩年は過食症と拒食症の症状が繰り返し起こっており、死去前日は食欲が少し出てきたところで翌日亡くなったことになっている。
 彼女の死は社会に大きな衝撃を与え、拒食症などの摂食障害が社会的に認知されるきっかけとなった。

 カレン・アン・カーペンター(1950年3月2日 - 1983年2月4日)は、カーペンターズのヴォーカリスト、ドラマー。声種はアルトで、3オクターブの声域を持っていた。彼女の声の美しさについては、ビートルズのジョン・レノンやポール・マッカートニーをはじめとした一流のアーティストたちも絶賛している。


 長年の摂食障害と体を酷使したエクササイズによりボロボロになっていたカレンの心臓は限界に達し、1983年2月4日、わずか32歳の若さでこの世を去る。歴史に名を遺すシンガーは、最後まで周囲の都合と母親の期待に引き裂かれた。カレンの死後15年を経て、日本では東電OL殺人事件が起こる。望まれる女性像と活躍する女性像の狭間で、唯一コントロールできる身体を消費するように死んでいった彼女たちから、まだ世界は学んでいない。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カレン・カーペンター

 チャットノベルにカーペンターズを投稿するために検索した記事から引用しました。最後の「東電OL殺人事件』は未解決です。『恋の罪』というこの事件を元にした映画を観たときに興味を持ちました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み