第277話 文学の意義

文字数 1,549文字

 先日、夢の中で大学時代の恩師に出会った。その先生はカウンセリングの専門家・研究者で、私は先生のもとで研究生として1年間臨床心理学のさわりを勉強した。その研究室で私がかじった事をすご~くディフォルメして言うと次のようになる。

 あるデパートのおもちゃ売り場でお母さんと幼い子供がおもちゃ売り場に通りかかった。すると子供が「これ買って~‼‼」とだだをこねる。お母さんが「ダメ‼‼おもちゃを買いに来たんじゃないでしょ!」と一括する。するとその子はその場で寝転がって地団太を踏む。お母さんは困ってしまう。それを見た子供は調子に乗って一層地団太を踏む。困り果てるお母さん。と悪循環が続く。この悪循環を断つためにどうすればよいか?あくまで、あくまで答えの1つではあるが、今度はお母さんがその場に寝転がって地団太を踏む「ダメって言っているでしょ~‼‼」と。それを見た子供はどう反応するか?ここで大切なのは、とにかくコミュニケーションの悪循環を断つことだ。

 また、次のような例もある。ある小学校でいつも下駄箱に嫌がらせをされる子がいた。嫌がらせをされてしゅんとしていると、次の日にはその嫌がらせが一層エスカレートしている。一層しゅんとしてしまうその子。この悪循環を断つためにどうするか?答えの1つとしては、ある日嫌がらせをしている側がその子の下駄箱を開けると、そこにはなんと先生の靴が‼‼‼これは実際にあったいじめ解決事例として残っている。

 専門的な学問としてはそのような事を私は先生から教わった。ただそれとは別に、知性のきらめきの破片のそのまた破片のようなものが仮に私にあるとすれば、それは全てこの先生のおかげで、だからこそ私にとって恩師な訳だが・・・。その先生が夢の中でおっしゃる。

先生「君の文章を読んでいると僕らのしてることと決定的に違う点があるな。」
私 「自覚させる点ですか?」
先生「そや、僕らは気づかせる必要はないんや。どの点に、どのタイミングで、どういう方向に力をかけるか?力自体はほんの少しで済むならそれがええんや。」
私 「先生のおっしゃる通りです。私は不器用なのかも知れません。先生のおっしゃるように出来ればよいのですが・・・。ただ、一方で《自覚》も必要な気もするのです。自覚と深い内省があって初めてイラショナルなビリーフつまり《間違った思い込み》から解放されるのではないかと。そんな気もするのです。生意気を言ってすみません。」
先生「うん。まあそれはええんや。ただな、我々のノウハウを大学の外に散逸させるのはどうかと思うで。」
私 「???どういうことですか?・・・あっそうか!我々、いや私は含まれないですが、我々だって食べて行かなきゃいけない。そういう事ですね?すみません。私はまだ考えが浅い。そこまで思い至りませんでした。先生は私にいつも新たな“発見”を与えて下さいます。有難うございます。」

と、そこで目が覚めた。夢の中でとはいえ先生とこのような時間を共有できたことは私に
とって本当に有難い事だった。もっとも私の一方的な思い込みかも知れないが・・・。

 さて、かつて魯迅は「医学で治せるのは個々人に過ぎない。自分はもっと多くの人々の
心を治癒したい。」と文学を志したそうな。魯迅に習うわけではない。習うわけではないが
どうせ文章を記すならそのくらいの気概を持ちたいものだ。そもそも文章で何かを世に表
すという行為は、それ自体ある種の責任を伴うものなのだ。読んでくれた人が、ひいては
社会が少しでも前向きで、よりましなものになるよう、心がけるべきだろう。
 
 そんなわけで、私のこのつたない文章を読む事が皆さんにとってほんの少しでも、その
人生を益するものであれば幸いなのです。今後もどうぞよろしくお願いします。
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