第29話 絆

文字数 1,785文字

 今日、何気なくYouTubeでソウルミュージックの特集を聴いた。何だか妙に気に入って近所のレンタルショップに行って70年代ソウルのコンピレーションアルバムを数枚借りてきた。「やっぱいいな、歌い手の汗や息の匂いまで伝わりそうなこの声色!ソウルカッコいい!」とまるで知識もないのにいい気になってクルマの中でハミングした。次の瞬間、気づいた。「ああ、そうか。「絆」ってこういう事なんだな。」

 昨今、「絆」という言葉をよく聞く。と言うか、耳にしない日がない。多用されるこの言葉があまりピンとこなかった。でも今日ソウルミュージックを聴いていてわかった。誤解を恐れずに極論するなら「絆」とは息の臭さだ。もしくは相手の体臭そのものだ。つまり「人間臭さ」であり、綺麗ごとではないのだ。人と人とが信頼関係を築いていくのは綺麗ごとだけでは済まない。相手の嫌な部分、汚い部分、それこそおしめを取り換えたり、取り換えられたりして?初めて築けるものなのだ。人口に膾炙するこの言葉、それを承知の上で使われているのだろうか?そうは思えない。「絆」ってそんな簡単なものじゃない!声を大にして言いたい。私が築いてきた「絆」と言えば、今は遠くにいる学生時代の友人と、現在休日を共に過ごす事の多い友人が一人、あとは両親と兄弟だけだ。残念なことに学生時代の友人の多くは、その「絆」が薄れてしまっている。これはある意味仕方ない。みんな結婚して自分の家族を持つからだ。彼らには新しい「絆」ができる。するとどうしてもこちらは縁遠くなる。これは仕方ない。 

 そう考えると、「絆」とはそんなに多く保持できるものではない。一人が保てる「絆」の数は片手の指で数えられるくらいが限度なのではないだろうか?であるならばやはり「絆」の多くは「家族」が占めることになる。そこでふと我を顧みた。40を過ぎて独身の私は将来的に(私が高齢になった時)保つべき「絆」をつくる機会を失ってしまっているのでは無いだろうか?

「だったら結婚すれば?」と私の話を聞いていた友人が言う。

「それはそうなんだけど・・・。」

 折しも、私のもとに一通のスカウトが来ていた。以前、高校部を受けてダメだった塾から今度は小中学の部で講師をやらないか?という誘いだった。給料は今より多くもらえる。もし私が一人暮らしをして自分の家族を持つなら、つまり「絆」を築くなら、最後のチャンスだと友人は言うのだ。確かにそれはそうだ。それは解っている。でも、今のところに雇ってもらった義理もある。居心地も悪くない。子供達との関係もやっと築けてきた所だ。それに・・・。

「結局、貴方はどうなりたいの?」

と友人が聞いてきた。

 私は私にしては珍しくというべきか、考えるより先に言葉と動作が出た。両手でキーボードをたたく真似をしながら

「俺はこれで食えるようになりたいんだよ。」

「ふーん、それでね。」

友人がほほえましいものでも見るような口ぶりで言う。

「そう、そうなんだ。その為には時間が、本を読む時間と、何より考える時間が必要なんだ。家庭を養っていく責任は負えないんだよ。それに俺は自分勝手なところがあるから多分、多分、家庭を面倒に感じるんじゃないかと思う。」

 そうなのだ、夢を追うとか、好きな事を追求するというのは自分勝手で強欲な事なのだ。しかも、自分の好きな事で飯を食って、幸せな家族をもって、富も名声も手に入れる。そんなに人生は都合よくは出来ていない。何かを手に入れるとは多くの場合何かを犠牲にする事に等しい。そう気づいた時、私の腹は定まっていた。

「うん、この話は見送ろう。」

と、そこまで話していたら奥さんと二人の娘さんが帰って来た。それを見計らって私も友人宅を辞することにした。

「恭子ちゃん、祥子ちゃん、こんにちは。お邪魔しました。またね!」

 二人の娘さんにそう言って私はクルマに乗り込んだ。クルマの窓越しに奥さんと娘さんを伴って玄関のドアを閉める友人が少し誇らしげに見えた。

 そんな一日を振り返りながら今キーボードを叩いている。



「人生は何かを成すには短すぎるが、何もなさないには長すぎる。」

 昔、小説で読んだ通りだ。

 果たして私は「何か」を、

ぜんたい犠牲にしたものに値するだけの「何か」

を残す事が出来るのだろうか?



 さて、話は戻りますが、みなさんは如何ですか?

「絆」ありますか?

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