第134話 LOSER

文字数 1,621文字

 時間がおありの方は次の動画を見てください。ウルフルズのミュージックビデオです。「笑えれば」という曲。

https://www.youtube.com/watch?v=L-ZWzztTX54

 このミュージックビデオには主に3人の人物が描かれています。
① 花婿
② 花嫁
③ 郵便配達員

 この文章をお読みのあなたはどの人物に親近感を抱きますか?①の花婿は常に正道を行くすがすがしくも頼もしい人物。②の花嫁。優しそうな人です。そして③の郵便配達員。少し頼りなさそうな、でも人のよさそうな人物。人それぞれ、共感する人物は異なると思いますが、私は③の郵便配達員に親近感を抱きます。動画を見てお分かりと思いますがこの郵便配達員は大事な場面で思わず隠れてしまいます。以前この話をある女性にしたところ、その方曰く「なんで隠れんの?」との事。とっさに私は「なんで隠れんのって言われてもなあ。」と返答に困った思い出があります。そうです。あの場面で何故隠れたのか?説明することは難しいのです。ただ、こういう言い方が適切かどうかはわかりませんし、こういう言い方を私自身好きではないのですが、この郵便配達員のメンタルはいわば敗者のメンタルなのです。逆に花婿のメンタルは勝者のそれと言えるでしょう。自分が敗者である事を受け入れて、少し寂しげに、でも朗らかに笑って日常へと戻っていく。自分の責任を果たしに。そんな姿が「最後に笑えれば」という歌詞とあいまって心に浸みます。
 さて、話は移りますが、『あしたのジョー』はご存知でしょうか?私もリアルタイムではありませんが読みました。ある方がおっしゃっていたのですが、この作品は「敗者のロマン」・「敗者の美学」なんだと。ジョーの最後の相手であるホセ・メンドーサは金も地位も名誉も手に入れ、美しい妻とかわいい子供たちもいます。それに対してジョーには何もありません。ただ一人、友と言えた存在である力石を不慮とは言え、自分のこぶしで殺してしまっているのです。勝者と敗者の構図が対照的です。しかし本来敗者であるはずのジョーが最後の最後、メンドーサを追い詰めます。倒しても、倒しても立ち上がってくるジョーにメンドーサは恐れをなすのです。決着は判定にもつれ込みます。それでも判定の結果はメンドーサの勝ちです。どこまでもジョーは敗者なのです。でもそのジョーがグローブを手渡して最後、満ち足りた表情で「燃えたよ。真っ白に。燃え尽きた。真っ白な灰に・・・。」と言うのが衝撃のラストシーンとして語り継がれているのです。確かに「あしたのジョー」は敗者の美学と言えるでしょう。この作品が名作として今も語り継がれるのは、あくまでもジョーが敗者だったからではないでしょうか?もし、ジョーが最後ホセ・メンドーサに勝っていたらこうはいかなかったと思います。実は私はこの辺りに文学や芸術の存在意義があると思っています。勝者、成功者には嫌でも仲間が増えます。誰だって勝ち馬の尻に乗りたいのは古今東西一緒です。では、敗者や弱者の立場はどうなるのでしょうか?ここが問題です。敗者・弱者には何も残らない。それでは虚しすぎる。だからこそ敗者や弱者に寄り添うのが、敗者、弱者を代弁するのが文学・芸術の役割ではないかと思うのです。その意味において表現者とは勝者や成功者ではなく、敗者や弱者の側に立つ必要があるのではないでしょうか?そんなわけで、先程ご覧いただいたミュージックビデオの、花婿ではなく郵便配達員に私は親近感を抱いたのだと思います。勝者や成功者ではなく敗者や弱者のサイドに身を置くのは表現者としてある意味では当然の事なのかもしれません。無論、異論・反論はあるかと思いますが・・・。
 と、こむつかしく御託を並べて自己分析してはみたものの要は、私はこの郵便配達員が好きなのです。その気持ちがよく解るのです。そういう人間なのです。可笑しかったらどうぞ笑ってやってください。(笑)
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