第3話 言葉・ロジック・共感

文字数 1,526文字

 先日ホリエモンこと堀江貴文さんの本を読んだ。本全体に関する感想はともかく、興味深い点があったので採り上げたい。堀江さんは東大駒場寮で大学生活を送ったのだが、ほかの寮生と些細なことで喧嘩になった。その際、堀江さんが寮生から言われた言葉が
「お前には人の気持ちってものが解らないのか!?」
これに対する堀江さんの答えは
「人の気持ちなんか解るわけないでしょ!」
だった。さて、私は堀江貴文的価値観や生き方を、肯定するわけでも否定するわけでもないが、この会話に対しては一言いいたいことがある。結論から言うと、この寮生の
「お前には人の気持ちが解らないのか?」
と言う発言は論理的に破たんしている。どう破たんしているかと言うと
「お前には人の気持ちが解らないのか。」
と言うからには、彼自身は自分が「人の気持ちが解る」
という前提のもとに話していることになる。同時に堀江さんの事を
「人の気持ちの解らないやつ」
と、決めつけている。というからには彼は
「人の気持ちの解るやつ」
であるのだから
「人の気持ちが解らないやつ」の気持ちも解るという事になる。
 これは矛盾している。何故なら、
「人の気持ちの解らないやつ」の気持ちは
「人の気持ちの解るやつ」には解らない。
 若しくは
「人の気持ちの解らないやつ」の気持ちは、「人の気持ちの解らないやつ」にしか解らないからだ。
 したがって、彼の前提「人の気持ちが解る」は成り立たない。故に
「お前には人の気持ちが解らないのか。」
という発言は論理的に破たんしている。もし、この寮生が
「俺も昔は解らなかったけどな。」
と言うのならば、そこには「時間」と言う概念が加わり、話は別だが・・・。
 このロジックに私は中学生の頃気づいたが、
「あまり言わない方がいいな。」
と思いつつ現在に至っている。でも、いい大人になった今だからこそ言いたい。
「人の気持ちはそう簡単には解らない。だからこそ言葉を大切に扱うべきだ。」
 堀江さんの肩を持つわけではない。ただ、我々は安易に「人の気持ちが解る。」という表現を多用するべきではない。とは思う。他人の心を理解したつもりになって、安易に同情したり共感したりしたつもりになるのは、ある意味、失礼で傲慢なだけでなく、時には危険でさえある。
 十年ほど前にベトナムに旅行したことがある。ベトナム戦争の銃弾の跡が残った激戦地を訪れた際「他人事とは言え、ひどいな。」とつぶやいたら、現地の若い日本語ガイドさんが、そっと「ありがとうございます。」と言ったのを思い出した。何に対しての「ありがとう。」なのかはあえて述べる必要はないと思う。無意識に口から出た言葉だったが、おそらく間違った言葉選びではなかったようだ。語彙を増やすとか、語源を知るとかいうのとは違う。言葉を丁寧に用いるというのは、難しいようで簡単な、簡単なようで難しい事なのかもしれない。ただバックグラウンドの異なる他者と「よりましな関係」を築いていく上で、言葉を丁寧に適切に用いるのは必要なことであり、ひいてはそれが「よりましな社会」を築いていくことにつながるのではないだろうか?
 この文章を書いていてわかったのだが、他人の気持ちを理解しようと努める事、その気持ちに寄り添おうと努める事と、無責任に他人の感情に便乗する事とは天と地ほど違う。この点に思いをいたせば、いじめとか炎上とかヘイトスピーチとかが今より少なくなるのではないか。
 話は戻るが、今はなきSMAPの楽曲に「話をしようよ」と言う内容の曲がある。リアルタイムで聞いたときは何とも思わなかったが、今聞いてみると意味あるメッセージが込められている。この文章をお読みの皆さんは大切な誰かと「話」していますか?是非「話」をしようよ。
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