第361話 本当の知

文字数 1,441文字

 先日、前から乗っていた自転車が古くなったので、新しいのをネットで購入した。すると万事保守的な母が、「なんでもすぐにネットで買うのはどうかと思うよ。」といつものように小言を言う。対して私は「機会損失と言う言葉を知ってるかい?あるおもちゃ屋に10,000円のゲーム機を買いたいというお客さんが100人並んだ。でもお店には在庫が1個しかない。すると在庫があれば100万円の儲けだったのに、1個しか売れなかったので、この場合99万円の機会損失という事になる。この話を応用すると俺が自転車に乗れないのは俺にとっての機会損失になる。これ以上は言わないけど、言葉とその概念くらいは知っておいた方がいいよ。」体よく母を黙らせたことに気をよくした私は、自分で言った機会損失と言う言葉に思いをはせていた。

 「もし、もしお金が潤沢にあればの話だけど、今の若者にとっての最大の機会損失は海外に行かない事だろうな・・・。」最近の若者は海外に積極的に行きたがらないという話をよく聞く。無論、円安という現実的な問題はある。だとしても、十代二十代で海外に行かないのは大いなる機会損失だと心底思う。私だってそれほど海外経験が豊富なわけでは決してない。ただ、海外に行ってみてそこで得たものは自分にとって計り知れないくらい大きかった。

 昔ベトナムを旅した時、同行した友人に「俺はヨーロッパに行きたい。」と告げると「つまらないでしょ。」と一蹴されたことがある。その時は「なぜ???」と思ったのだが、今なら解る。少し歴史を学ぶとわかるのだが、合理性と効率をキーワードとする近代以降のパラダイムは欧米によってもたらされたものだ。友人に言わせれば「今更、欧米的価値観を見に行ってもつまらないでしょ!」という事だったのだ。それよりも、いまだ近代のパラダイム(欧米的価値観)に染まってない国を見に行った方が面白いよ!そう本能的に悟っていたのだろう。結果ベトナムに行ったのは大正解だった。

 日本にいると当たり前のことが向こうでは当たり前でも何でもない。逆に日本にいると何でもない事が向こうでは常識だったりする。誤解を恐れずに言うならば、常識が異なるというのは思考の枠組みや価値観、つまりパラダイムそれ自体が異なるという事だ。その意味で異国の地で生活するのは思考の枠組みを再構築する機会ととらえることができる。友人は「どうせ再構築するなら、全然違うもののほうが面白いよ!」と言いたかったのかもしれない。

もっとも、日本人は欧米的パラダイムすら、いまだ会得してなどいない。と言うか福沢諭吉の頃からほとんど進歩していない。欧米には欧米で十分に行く価値があると思う。同時に近代以降のゲームチェンジャーは常に欧米だ!そのことを肝に銘じておかないと足元をすくわれてしまう。ただ、近代以降のパラダイムがすべてと考えるのでは、友人に言わせるなら「その知はツマラナイ」という事になる。

 今私に時間と金銭的余裕があるなら、ネイティブアメリカンに会いに行ってみるのもいいし、アボリジニの生活にも触れてみたい。アイヌの人たちにも学ぶところは多々あると思う。多様性と言ってしまえばそれまでだが、知のパラダイムは決して一つではない。本当の知とはあらゆるパラダイムを身に着けつつ、あらゆるパラダイムから自由であることなのかもしれない。
 
 もしこの文章をお読みの皆さんの中に10代20代の方がいるなら、是非積極的に海外に行くべきだと思う。本当の知を身に着けるために!
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