第203話 自分の頭で・・・

文字数 2,349文字

 いいこと言うじゃないか!知識偏重のナンセンスさは俺が学生時代から主張してきたこと。やっと世間が俺に追い付いてきたってことか?用語を覚えるよりも仕組み・からくりを理解することの方が百倍重要だ。

 まだ追いついてないよ、俺がお前に追い付いた。

 よく解ってるじゃないか(笑)。俺は頭は良くないが、ただ一つ誇れるとすれば悪いなりに自分の頭でいつも考えてきたってこと。どんなに拙くとも自分の言葉で語る方が単なる受け売りよりもはるかに価値があるぜ!

 これは先日行われた大学入試センター試験の世界史の問題を解いての友人との感想。なんでもムーミンがどこの国の話かを知っていないと解けない問題だったとか。ちなみにムーミンはフィンランドの妖精。とってもちっちゃな。

 友人に返信をしたとき、「どんなに拙くとも自分で思考することの方が受け売りの知識よりも価値がある」と私は直感的に述べたのだが、それはなぜか?自分の直感が何にもとづくのか?寝ながら考えた。

 結論から言うとズバリそれが民主主義の根幹をなすからだ。どんなに、学識の豊かな専門家の言葉だろうと、どんなに社会的地位の高い方だろうと、どんなに優秀な人の言う事だろうと、あの人が言っているのだから間違いないと、自ら考えることを放棄してしまったら、それは直接であれ間接であれ民主主義とはいえない。確かに組織、特に軍隊などでは上意下達が必要で、命令にいちいち疑問符をつけているようでは戦場では話にならない。それはもっともだ。と言いたいところだが本当にそうだろうか?太平洋戦争上最も過酷な惨状となったインパール作戦では「味方を5000人殺せばあの土地を占領できる」といったあまりにもずさんで、どう考えても実現不可能な作戦指示が上層部からなされた。当時現場を知る中堅の軍人はそのことを百も理解していたが上層部に対して反論できない空気が出来上がっていたという。結果、補給線を無視した軍隊には戦死以上に疫病や飢えで死ぬ兵士があふれ、生き残った者たちは死後もしくは死にそうな自軍の兵士を殺して、その人肉を食して飢えをしのいだ。とNHKの特番で当時の兵士が述べていた。耳をふさぎたくなるようなしかしこれは現実だ。組織の自浄作用が失われている一例だろう。上意下達が硬直化した組織では下位に属するものは自ら考えることを放棄してしまう。それが染みついている人にとっては逆もまた然りだ。自分よりさらに下位に属するものが何を言ってもそれを退けてしまう。私が学生時代に師事した先生はそれがどんな拙い論理であれ、生徒自らが考えたものであればきちんと耳を傾ける方だった。そこには知的ヒエラルキーも何もなかった。その薫陶を受けてか私も教師時代、自分が知らないこと解らないことは正直に知らない、わからない、と伝え、その場で考えた。それそが信頼と組織の自浄作用につながっていたのではないかと今にして思う。話はそれたが民主主義とは一人一人が自分の頭で考えることを前提として成り立つ社会制度だ。うちは代々あの人の地盤だからとか、若くてルックスがいいからとか、みんなあの人に投票するからだとか、そういうレベルで貴重な一票を投じるのは本当にナンセンスなことだと思う。その意味で、誰が言ったか知らないが選挙のたびに出てくる「○○劇場」という言葉は、我々大衆をこれ以上ないほどに侮辱にしているのではなかろうか?この言葉が平気でメディアに取り上げられている光景に我々大衆はもっと憤りと情けなさを感じるべきだ。我々大衆も勉強しなければならない。そして自分の頭で考えねばならない。ただ、中には日々の仕事や介護、育児に追われて、とてもそんな余裕はないという方々がいるのも事実だろう。そういう方たちの為にも政治家と言われる人たちは、難しい言葉や専門用語をかみ砕いてやさしく解りやすい言葉で説明する責任があると思う。無論良い面も悪い面も含めて本音で。私も難しい事は解らない。ただ池上彰さんのような方が難しい内容をやさしい言葉でかみ砕いて我々大衆に伝えてくださるのは本当に有難いと思う。うがった見方をすればこの国の教養が底上げされてきたからこそ池上彰さんのような方が脚光を浴びる土壌ができてきたのかもしれない。無論池上彰さんの個人的な努力と理念には敬意を払うものである。でだ、解りやすい言葉で情報を得たからには、そこから先は我々一人一人が自身の頭で考えねばならない。では、そもそも考えるとはどういうことか?考える人と考えない人の違いは何か?私の経験上そのカギとなるのは「言葉」だ。我々は物事を考えるうえで、その道具として「言葉」をいやがおうにも使わざるを得ない。日本語で言うなら、て・に・を・は、しかし、何故なら、だから、また、その上、等々、小学校低学年で覚える基本的な接続詞や助詞が物事を考えるうえで非常に大切になる。ジョージ・オーウェルの「1984年」を読むと解るのだが、かの小説の舞台となっている監視社会では為政者側が言葉をどんどん簡略化して最終的には言葉そのものを消滅させようと図っている。つまり思考や概念のツールを奪おうとしているのだ。もっと言うと「考えない人間」をつくろうとしているのだ。1948年の段階でこのような発想をしていたジョージ・オーウェルという作家はすごい。またまた話はそれたが、何を言いたいかと言うと「自分の頭で考えよう」そのためにも「日本人ならまずは日本語」をしっかりと身に着けよう、という事。そして親なり教師なり教育に携わるものならば、それがどんなに拙いロジックでも子供が自分の言葉で述べる時、それに耳を傾けるべきだ。話は飛躍するかもしれないが、そうすることが民主主義のはじめの一歩になるとおもうのだ。
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