第16話 真剣勝負

文字数 885文字

 もうずいぶん前の話だが、北野武さんがあるTV番組の中で相撲の八百長騒動について「相撲は豊作を祝って神様に捧げる儀式である。つまりスポーツではないのだから、八百長は非ではない。」という意味合いの発言をされていた。その場はなんとなく聞き流してしまったのだが、何かがずっと頭の奥の方で引っかかっていた。今日TVを観ていたら、ふとそれが何だかわかった。以下に記す。
スポーツではなく儀式だからと言って、真剣に応援している人達を裏切ってもよいものか?否、それは相撲に対して真剣に自身の想いを託している人達に対して失礼だ。では、勝負事に自身の想いを託すとはどういうことか?どうして勝負事に人は熱くなるのか?そもそも、真剣勝負とは何なのか?と考えた時ピンときた。真剣勝負とは本来は文字通り真剣での勝負である。やばいのである。何がやばいって真剣で勝負したら人死が出てしまう。この令和の平和な世に勝負事で人が死んだらやばいのだ。裏返せば、平和な時と場所に暮らす人々は真剣勝負に飢えているとも言える。ローマ時代に剣闘奴隷がいたのも、現代社会で各種勝負事、サッカー、野球、ボクシング、囲碁、将棋等々が盛んなのも、これら真剣勝負に飢えた人たちが、自身の満たされない思いを各々に託しているからではないだろうか?過去においても現代においても、それがいわゆる見世物としての勝負事の存在意義なのではないか?であるならば、相撲がスポーツであれ、儀式であれ、肝心なのは
「相撲に想いを託す人がいるかどうか?」
ではないか?そこに想いを託している人がいるならスポーツであれ儀式であれ、その想いを裏切ってはならない。そして相撲に想いを託す人は、いる。つまり八百長は非である。というのが私なりの結論だ。北野さんの意見を伺ってみたい。
私も勝負事は好きだ。特に「全国高校サッカー選手権」が毎年冬の楽しみだ。ちなみに私の祖父は生前「甲子園」が何よりの楽しみだった。祖父がよく言っていた。「甲子園は負けたら終わりだからな」と。野球とサッカーと畑は違えど、愛される理由は同じだ。「負けたら終わり」つまり真剣勝負がそこにはある。
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