第318話 普通の人

文字数 2,273文字

 イエスに興味がある。キリスト教のイエスだ。今から2030年ほど前のイスラエルに生まれたユダヤ教徒の彼は、30歳くらいから布教を始める。布教と言っても、新たな宗教を始めたわけではない。当時の行きすぎた戒律重視の律法主義(律法を守れぬものは天国に行けないとする主張)に対する批判からユダヤ教の改革を唱えたというのが妥当だろう。

 歴史をかじった事のある方ならご存知だろうが、イエスは私生児だ。母はマリア。父親はヨセフ。という事になっているがそう簡単ではない。のちにキリスト教の教義が確立する中で、マリアは処女のままで身ごもってイエスが生まれたことになっている。現実にはあり得ない事だ。一体この話は何を意味しているのか。

 マリアとヨセフは婚約者同士だった。ところが婚約中にマリアのお腹が大きくなる。誰かと何かがあったのだろう。どんな事情があったかは解らない。

 ヨセフとしては身に覚えがない。不埒な女だ、と婚約破棄をしても誰にも非難されない。聖書によれば、やはりヨセフは悩んだらしい。しかし、結局そんなマリアを受け入れて結婚した。そして、生まれたのがイエスだ。マリアとヨセフはその後何人も子供をつくっている。イエスには、弟妹が何人かいたようだ。そしてイエスの出生の事情は村のみなが知っていた。

 布教を始めた当時、故郷の近くで説法をした彼に対し、同郷の者達から野次が飛ぶ。「あれは、マリアの子イエスじゃないか!」誰々の子誰々というのが当時人を呼ぶときの一般的な言い方だ。普通は父親の名に続けて本人の名を呼ぶ。だから、イエスなら「ヨセフの子イエス」と呼ぶべきだ。「マリアの子イエス」とは「お前の母ちゃんはマリアだが親父は誰かわからんじゃないか」「不義の子」と言う意味なのだ。だから、かれの出生は秘密でもなんでもなかった。イエス自身もそのことを知っていただろう。

 イエス自身が戒律からはみだした生まれ方をしていた。「不義の子」イエスは、だからこそのちに、最も貧しく虐げられ、絶望の中で生きていかざるを得ない人々の側にたって救いを説くことになったのだと思われる。

 聖母マリアの処女懐胎、という言葉にはそんな背景が隠されている。
 
 ここからは私の私見だが、イエスは実は単なる負けず嫌いだったのではないか?「不義の子イエス」と言われてシュンとしてしまえばそれまでだ。でも、彼はちがった。彼の言葉

「安息日が人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない」
「金持ちが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」

などに彼の人格を構成する“負けず嫌い”としての一面が見え隠れする。

 イエスはユダヤ教の解釈を改める事と病癒しによって、短い間にものすごく評判になり多くの支持者を集める。かれの行くところには常に人々が群がるようになる。

イエスこそが待ち望んでいた救世主だと考える人々も多くなってきた。

 イエスが評判になると、面白くないのがユダヤ教の指導者たちだ。彼らは、なんとかイエスの信用を落として、あわよくばイエスの落ち度をとらえて逮捕処刑しようと考える。
ユダヤ教の指導者たちの手下、スパイたち、がイエスの身辺にあらわれてかれの言動を探ったりいろいろな罠をかけたりするようになる。

 これらの罠を持ち前の機知とその生来の負けず嫌いの性格により切り抜けていくイエス。ただ、難題を乗り越えれば乗り越えた分だけ敵は強大になってゆくのが常だ。これまた私見だが、思うにイエスとは引くに引けなくなってしまった哀れな男なのではないだろうか?難問を一つ解決するごとに自分の虚像が大きくなり、やがて独り歩きを始めて・・・。最終的には自分の意思を超えて虚像を演じざるをえなくなった。そんな哀れな男のように私には思えてならない。
 
 本来負けず嫌いなだけの普通の人だったイエスが、自身の虚像を演じているうちにどちらが本来の自分だかわからなくなってくる。そのような切り口でイエスをとらえてみると面白いのではないか?

 そして、いつの時代も大衆は身勝手だ。勝手に期待をして、期待した結果が得られないと勝手に怒りだす。ひょっとするとイエスが本当に戦っていたのはユダヤ教の律法主義者などではなく、この身勝手な大衆だったのかもしれない。そんな風に思いうようになって久しい。

 さて、この文章の表題を“普通の人”としたが、本来人に普通も普通でないもない。その意味で普通の人がいるだけだ。普通でないと判断するのは結局、周囲の大衆なのだ。イエスだって多分と言うか当たり前に普通の人だったのだ。それを祭り上げたのは当時のそして後世の“身勝手な大衆”だ。本当にキリストが尊敬に値する人ならそんなことは望んでいなかったろうに・・・。

 さて、彼より2000年ほど後に生きたあるユダヤ人が次のように言っている。

昨日は偶像視され、
今日は憎まれ、
唾を吐かれ、
明日には忘れ去られ、
明後日には聖人に叙せられる。
唯一の救いは、ユーモアのセンスだけだ。
これは、呼吸を続ける限りなくさないようにしよう。

 アインシュタインの言葉だ。結局、何を言いたいかって、我々大衆ももう少しものを考えようって事だ。自分の足で立って、自分の頭で考えて、自分の言葉でしゃべって・・・。簡単そうでいてとても難しい事なのだ。でもそれが出来る人に私はなりたいし、この文章をお読みの方にもそうあって欲しい。

 そしてイエスを【普通の人】に戻してやることがイエスに対する一番の供養になるんじゃないか。そんな風に考えた。2000年間どうもお疲れ様でした。
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