第345話 守備的人間

文字数 1,206文字

 先日、と言ってもずいぶん前になるが、仕事で学校に1年生の児童たちを迎えに行った際、連絡の不備で遅れてしまったことがあった。気づいた私は済まなかったと思い、足早になった。すると、それに気づいた他の支援員に「こういう時ほどゆっくり行くべきですよ。」とたしなめられた。「なるほど、そういうものか!」と頭では分かったもののやはり落ち着かない。遅れてしまったという後ろめたさのようなものが消えなかったのだ。ほかの二人の支援員は事も無げにゆっくりと歩を進めた。「そうだな、こっちが落ち着いていなければな。」と思いつつ、やはり気がせってしまう。こういう時に「自分は線が細いな。」といやおうなしに感じる。

 これに限らず、例えば人に挨拶する際にも、私は大した理由がないにもかかわらず、「昨日~を失敗した事、怒ってないかな?」とか「さっきちょっと頭に浮かんだことが、伝わってないかな?」とかいつも顔に出てしまう。そうすると、何と言うか、堂々と挨拶できない。こんな時もっといい意味で図太くなれたらいいのに、と常づね思う。この感覚を煮詰めれば“罪悪感”とか“”良心の呵責“という事になるのだろう。ここにピンポイントで光を当てて小説にしたのがドストエフスキーの『罪と罰』なのだ。主人公のラスコリー二こふは人一倍線が細い青年なのに、あろうことか殺人を犯してしまう・・・。

 昔ある友人が言っていた「神なんて存在しないんだよ。いるとすれば、それは自分自身の中だよ。」そうなのかもしれない。宗教は各種あれど“神”ってのは自分の中にある良心を外在化したものなのかもしれない。俺のも、もちっとおおらかな神様だったらよかったのにな・・・。と思わないでもない。

 そういえば小学生の頃、道徳の教本か何かで読んだ。ある中年男性が子供に「君の名前は何というの?」と尋ねる。するとその子は「廉だよ。清廉潔白の廉だよ!」と答える。そんな場面があった。前後の文脈は忘れてしまったのだが、そこだけ覚えている。字こそ違えど私のペンネームもまた“漣”だ。故大杉漣さんから頂いたものだが、つけるときに無意識のうちに上記のごときが脳裏に浮かんでいたのかもしれない。

 なんにせよ、人様に挨拶をするときは“目を見てにこやかに“挨拶したいものだ。無駄にはにかんだり、心配そうな顔をされたりしても相手の方が困るだけだ。そうならないためにも、まずは自分自身が後ろ暗いとこのないよう、正々堂々と正面切って生きて行きたいものだ。そう、再確認した。

 小学生になってまず習う「元気で大きな声で挨拶しよう!」という背景にはこのような事情が存在する・・・。のかもしれない。もしくは逆説的かもしれないが、相手の目を見てにこやかに挨拶できるような毎日を送ろう、というメタなメッセージがあるのかもしれない。」

 とにかく、元気と笑顔ってのは“大事な武器”なのだ。私?私はどうやら守備的な人間らしい(笑)。
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