第84話 フィギュアスケートの構造的矛盾

文字数 1,117文字

 今日、パク・キュヒさんのギターリサイタルを聴きに行ってきた。クラッシックのことなどまるで解らない私は
「きれーな人だな~。まだ若そうに見えるけど20代かな?それにしちゃ表現力あったな。特に後半凄かったな。」
と感心して家に帰った。PCで検索してみると国際コンクールで何度も優勝している凄い方だという事が解った。ただ1985年の生まれで年齢的には結構いっていた。少なくとも20代ではない。

 先にも述べた通りクラシックのことなどまるで私には解らない。ただ
「演奏家の役割とは、作曲家がその楽曲で伝えたかったことを理解し表現する事」
それくらいは解る。つまり演奏家は表現者として作曲家がその楽曲で伝えたかった感情を再現せねばならない。その感情とは、苦悩であったり、歓喜であったり、孤独であったり、哀愁であったり、時に怨念や狂気であったりもするわけだが・・・。ここで問題になるのは表現者がこう言った感情を体得しているか、つまり実感した経験があるかどうかという事である。孤独を感じたことのない人間に孤独を表現しろと言っても無理な話だ。実感が伴わず、ただ上手に演奏するだけでは聴衆の心に響かない。上手いだけの演者が一流になれないゆえんだ。そこで年齢の話になる。パク・キュヒさんが、何も単に若くてきれいだから驚いたのではない。あんな若そうなのに表現力が豊かだから驚いたのだ。でも(パクさんには失礼だが)調べてみたら実際には35歳くらいの方だと解って納得した。その意味で、本物の表現者になろうとするならある程度年を食うのは必然なのだ。と考えながらある事に気づいた。
「そういやフィギアスケートって矛盾しているなあ。」
 フィギアスケート選手の肉体的なピークは10代後半からせいぜい25歳くらいまでだろう。しかし今まで論じた通り、その年齢では表現者としてはまだまだ未熟なのだ。つまり楽曲のテーマを表現者であるところの選手が消化しきれないのだ。フィギアスケートがスポーツであるのと同等か、もしくはそれ以上に芸術性を競う種目である以上、表現すべき様々な感情がある。にもかかわらず、十代後半の選手にはそれが実際の感情として体得できていないのだ。これはまさにフィギアスケートと言う競技の構造的矛盾である。したがってと言うべきか、テーマ曲選びには慎重にならざるを得ない。10代の選手にも表現しやすい解りやすい曲を選んだ方が得点に結びつくという結果になる。それはそれで年齢相応で溌溂としていていいのかもしれない。しかし何か物足りないのも事実だ。さてこの矛盾をどう整合すべきか?そもそもスポーツなのか芸術なのか?その辺りが問題なのではないだろうか?どうするIOC・バッハ会長?
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