第351話 存在理由

文字数 1,321文字

 先日、髪を切ったので自撮りして10こ下の友人に送った。すると
「こういうのデータの無駄だからやめてくださいよ(笑)。と言うか、こういう事するの長谷川さんと川西さんくらいですよ。やっぱバブル全盛のころに思春期を過ごした人たちって自分のこと好きなんですかね?今の若い人たちってこういう事しませんよ。」
と言われた。私はこいつなかなか鋭いこと言うな!と驚きつつ、
「そうか。やっぱ今の世代って自分を好きでいにくい世代なのかな?俺らが思春期の頃は経済も右肩上がりだったし、社会は相対的に明るかった。結果、みんな浮かれてた。今の若い人たちってそうはいかないんだろうな。」
「そうですよ。今の若い人達とラインする事があっても自撮りなんか送ったら引かれますよ!」
「なるほど。」
と私はうなった。私としては軽いジョークで送ったつもりだったが、その10歳年下の友人は確かにそういう事はしない。バブル期に思春期を過ごしたというマスレベル見ても、個人レベルで見ても、どうやら私は精神的に幼いのかもしれない。よく幼児が自分のことを~ちゃんと「ちゃん」づけで呼ぶが、あれと似たようなものか?気をつけねばな。と、そう思う一方でふと頭をよぎったことがある。
 
 大人になるという事は、自分に対する興味関心を失っていくことなのだろうか?もしくは自分を嫌いになっていく過程を言うのだろうか?確かに自分のことを「ちゃん」づけで呼ぶ大人は見たことがない。「だとしたら俺も「大人」にならねば・・・・・・。」と思考を進めそうになって何かが引っ掛かった。先の例から言えば私は自分のことが好きなのだろう。興味も自信もあるのだろう。むしろこの年になって何故自分のことを好きでいられるのか?自分に興味を持ち続けられるのか?そこにこそ重要な何かを解くカギがあるように思えたのだ。

 私が自分の何に自信を持っているのか?多分それは生き方なのだ。私のことを学生時代から知る友人に聞けばわかると思うのだが、私は友と呼べる人たちに対して常に真心を持って接してきたつもりだ。出来るだけ相手のことを思って接してきたつもりだし、出来るだけ正直でありたいと思って接してきたつもりだ。逆に言えば安っぽい嘘で騙したり、陰口を言ったりするような事はしてこなかった。今でも私は『Aの前ではBのことを口汚く罵り、Bの前ではAのことをこき下ろす』そういう奴が死ぬほど嫌いだ。何故嫌いなのか?と問われるならば、「それが俺と言う人間の本質であり、人格のコアなんだ。」としか答えようがない。おそらくそれは「美」や「恥」という意識と深いところで結びついているのだろう。そして「美」や「恥」の意識は人にのみ許された最も尊いものなのだ。(ひょっとするとゴリラやクジラにもあるのかもしれないが・・・)その事を理性によらず悟っていたからこそ私は「陰口」や「嘘」を避けきたのだと思う。

 そこまで考えた上で、私は「今後も俺は俺を好きでいられるように生きて行こう。」とそう結論づけた。それを幼いと見るか、尊いと見るかは他人に任せておけばいい。ただ、「美」と「恥」の意識だけは失いたくない。それらは私のつづる文章そのものであり、私の存在理由そのものだからだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み