第11話 愛わがままに

文字数 1,124文字

 大学を卒業して就職浪人していたころの話。同じく就職できずに大学院に進んだ友人と仙台市内をドライブしていた。市内で一番大きな四つ角に停車した際の会話。私が「こいつはまさにヒューマンスクランブル!(『人間交差点』弘兼憲史著より)。」
と、つぶやくと、
「僕らは今日も信号待ちさ。」
と、友人。
今思い返すとなんと親不孝なダメ学生だった事か。とても両親には聞かせられない。ただ、この友人、単なるダメ大学院生ではない。ドライブつながりで別の話もある。 ある日、市内をドライブしていたら、道端に花束が手向けられていた。それを見た私が
「自己満足だな。」
と、言うと、友人はすかさず
「事故だけにな。」
と、答えた。私は、
「そうそうその通り!」
と思わず口走った。自分でも無意識のうちに口をついた言葉に対し、友人が間髪もおかずに返してきたので驚いた。
こいつの言語中枢はどうなっているんだ?
 その後どういうわけか、友人も私も他人を指導するような立場になった。ある時、故あって、この友人とのやり取りを授業で話したことがある。その際、
「その花を見て私は『〇〇満足』と言ったんだ。それを聞いた友人は『まさに〇〇だけにな。』と言った。さて〇〇に入る同じ音の二文字は何だかわかる?」
とクラスに問いかけた。周囲がきょとんとする中一人だけ
「わかった!《ジコ》だー」
と答えた生徒がいた。ある意味、鋭すぎる言語センスだ。鈍すぎるのもなんだが、鋭敏すぎると自らを傷つけることがある。普通の幸せを手に入れて欲しい。今思うと十代の生徒たちに対して厳しすぎる認識を迫ったのかも知れない。
「人は死んでしまえばそれまでで、それに花を手向けるのは結局のところ残された者の自己満足にすぎない。」
真理を悟ったような気になっていた。なんと驕り高ぶっていたことか。ただあのころ我々は若かった。というより幼かった。あの時の事故の犠牲者と遺族の方々にはこの場を借りて心からお詫びいたします。申し訳ございませんでした。それとは別に歴史の授業としては一つ疑問が残る。
「なぜ、いつごろから人は死者に花を手向けるようになったのか?」
それまでは死んだら終わりだった。泣いてもしょうがなかった。しかしいつの頃からか残された者はそれに納得できなくて、花を手向ける事で自分の気持ちにけりをつけたのだろう。その意味で人は《わがまま》になった。
しかし、この《わがままさ》が人の「人らしさ」なのではなかろうか?もしかすると、そのころ(およそ二十万年前)《ヒト》は《人》になったのかもしれない。そんな事を考えた。あのころ友人も同じような事を考えていたのかもしれない。でなければあんなにさらりと返せなかったろうから。・・・深い奴だ。

~愛わがままに~
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