第247話 調和と合理

文字数 1,109文字

 昨夜のNHK『英雄たちの選択』で福沢諭吉を取り上げていた。コメンテーターの最後の言葉が面白かったのでここに紹介したい。曰く
「福沢諭吉の言葉なんて早く無価値になればいいのに。」
どういう事か?福沢諭吉が明治時代に言わんとしていたのは「日本人も早く1個人として自立し、民主主義にふさわしい存在になるべきだ」おおよそ、そう言う事だ。福沢諭吉の言葉の数々は令和の現代においてもなお色あせない・・・さすがは福沢諭吉。ではなく、早く色あせてくれなくては困る!と、そのコメンテーターはおっしゃっていたのだ。言い換えれば、明治の頃からちっとも日本人は進歩していないではないか!という事になる。
 番組終盤のキーワードになったのが「調和」「合理」と言った言葉・概念だ。「調和」とは尊い概念である。それは「全体が具合よくつり合い、整っているさま」を表す。これに対し「合理」とは「理屈にかなった」という意味である。「調和」とは言い換えれば何の軋轢もないさまである。これに対し「合理」とは多少不和や軋轢があったとしても理屈にかなっているさまを表す。「和をもって尊し」となすこの国、日本では無論「調和」に重きが置かれてきた。しかし、大雑把な言い方をすれば、福沢諭吉はこれからの日本人は「調和」よりも「合理」を重んずべきだと言っている。それが令和の現代になっても全く変化がない。つまり進歩がないとコメンテーターは嘆いていたのだ。
 さて、私はこの年(45歳)になっても「調和」と「合理」とどちらがより大切なのか解らない。ただ歴史を鑑みるに人は「便利」な方にいずれは流れていく。そして、もっとリアルなことを言わせてもらうなら「日本的調和至上主義」と「欧米的合理至上主義」、グローバル化が進んだこれからの時代、どちらの土俵で勝負するかと言ったら、それは間違いなく後者なのだ。である以上勝つのも後者だ。この極々当たり前の事実に一刻も早く気付いて、意識改革・感情改革を進めないと、この国の存在感は薄れる一方ではないか?とは思う。もっとも勝ちさえすればよい、というわけでもなかろうが・・・。
 優秀な人はいくらでもいる。私ですら気づくのだから、こんな事実みんな気付いているのだろう。解かっちゃいるけど変えられない。それがこの問題の根深さかもしれない。ただ、本当に能力がある人は何も言わずに海の外へと去ってゆくのだろう。取り残された我々としては指をくわえるくらいしかない。悲しい限りだ。
 こんな事を書くとまずいかな?とは思いつつも、誰かが言うべきなのだ。そう思ってキーボードを叩いている。この文章をお読みの皆さんはどう思うだろうか?えっもう海の外?トホホ~(涙)。
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