第56話 分断と共生

文字数 1,163文字

 今日、友人と食事(ラーメン)をした。そこで大学受験の頃の話になった。友人と私は同じ高校に通っていたが、クラスも違うし、お互い名前を知る程度の中だった。当時の私は塾や予備校にこそ行かなかったものの、家で受験勉強ができた。一方の友人は大変だった。よそ様の家庭事情なので詳しくは書けないが、色々とあったようだ。とても落ち着いて受験勉強できる環境ではなかったらしい。長い付き合いの友人だがそこまで踏み込んだ話をしたのは初めてだった。私の両親は私がサッカーに熱中していた時はサッカーに、受験勉強にいそしんでいた時は受験勉強に、それぞれ落ち着いて集中できる環境を整えてくれた。当時はそれが当たり前だと思っていた。でもそれは両親が骨を折ってそうしてくれたのであって、決して当り前ではなかったのだ。今更ながらその事に気づいて、まず両親に頭が下がった。次に友人に対して何だかすまない気持ちになった。友人にしてみれば私が恵まれて見えた事だろう。
「この年になって、男なら結婚して子供をもってやっと一人前だ。」
私に対してちょくちょく上から目線でモノを言う背景にはそんな訳があったのだ。
「世間体とかステレオタイプの幸せにこだわる必要は無いよ。」
と言う私がいかにもノホホンと生きているように見えたのかもしれない。

 以前、他人を妬んでばかりいる人の事を精神的に幼いと書いた。もしかしたら私は少し傲慢になっていたのかもしれない。彼らにも彼らの言い分があるのだろう。かといって人を妬んで集団でいじめをするような輩に情けをかける必要はないのだが・・・。  

 世間にはいろいろな人がいる。それぞれに立場も違えば背負っているモノも違う。そこには誰かを妬まずにはいられない人もいるだろうし、妬まれれば逆に相手を見下したくなる人もいるだろう。それが嫌ならば、自分と同じような境遇、同じような背景を持った人とだけつきあっていればよい。そうすれば妬むことも妬まれることもない。でもそれって今騒がれている“分断”に他ならないのではないか?アメリカに住んでいた事のある別の友人が言っていた。「向こうでは住む地区によって、スーパーに売っているモノの品質も値段も大きく異なるよ。」それだけ経済格差がはっきりしている。つまりは分断だ。それがない分、まだこの国はましなのかもしれない。

 何にせよ、傲慢になってはいけないし、かといって卑屈になる必要もない。いつでもフラットな状態に心を保ちたいものだ。私の知る小説に次のようにある。

“平和とは能力ある者の自制により保たれる”

 自分は才能があるのだから人より恵まれて然るべきだとか、いい暮らしができて当り前だとか、それでは平和は保たれない。そういう事だ。

さて皆さんはどう思いますか。分断と共生。私にとって簡単には答えが出ないテーマなのです。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み