第196話 神経衰弱

文字数 1,370文字

 トランプのゲームのひとつ「神経衰弱」の話。小学生の甥っ子がめっぽう強い。勝負をすると、まるで歯が立たない。物凄い枚数に差をつけられ、最終的にはお情けで何枚か取らせてもらえる。凄い集中力と記憶力だ。驚異的なまでだ。ただ弁解するわけではないが私だって小学生の頃はもっと強かった。なぜ今こんなに弱くなってしまったのか?一つには「神経衰弱で勝つ」という事に昔のようなモチベーションを持てなくなった、というのはある。ただそれだけではあの大差の説明にはならない。私の記憶力、集中力は低下してしまったのだろうか?もっと言うと私のおつむは(言い方は悪いが)悪くなってしまったのだろうか?いや必ずしもそうとは言えない。昔のような記憶力、集中力が低下した代わりに、自分で言いうのもなんだがいわゆる「抽象的思考力がついた」とは思う。「神経衰弱」をするにあたっても、このゲームがどういう能力を必要としているか?勝つためにはどういう訓練をすればよいか?そもそもこのゲームの意味は?といった思考ができるようになった。無論それは「抽象的思考」の一端に過ぎず、もっと言えば、美とは何か?幸福とは何か?よく生きるとは何か?愛とは何か、と言った抽象的概念について直感と感性とロジックでもって思考し表現する術を身に着けたと自分では思う。どちらが良い悪いの話ではない。ただ、失うものがあれば獲得するものもあるということだ。簡単に年を取った(大人になった)ともいえる。ただここで問題とされるのは私は芸術家などではなく、哲学者でもない、無論研究者でもなく、グローバル化された現代資本主義社会の末端の末端を担う一社会人にすぎないという事だ。であるからには本当の幸福や、愛とは何かについて考えるよりも、ガソリン代の値上げと、日々の昼食代について頭を悩ませた方がよりまっとうな頭の使い方といえる。先の「神経衰弱」の話になれば、必要なのは短期的な記憶や集中力とモチベーションであり、何よりも「神経衰弱」というゲームのありようについて考えるような視座はもたない方がましという結論に行き着く。我々はシビアでタフなこの現代資本主義社会をサーヴァイブしなければならないのだ。何はともあれ・・・。村上春樹のデビュー作『風の歌を聴けに』次のようなフレーズがある。「真の芸術や文学を求めているのならばギリシア人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ」と。というと「古代ギリシアに生まれたかったな。」という安直な結論に落ち着きそうだが、正直、私などはどっかの戦争に駆り出されて、負けて敵方に戦争奴隷として売り飛ばされるのが落ちだろうなという気もする。うまくいかないものだ。ただ昨今AI(人工知能)の開発が目覚ましい。「仕事を奪われるのでは」という見方が多い様だが私などは「古代ギリシア」の再来なるか?と内心ワクワクしている。AIの進化により果たして人は幸福になるのか、それとも不幸になるのか?容易に答えは出そうにない。もっとも何をもって幸福というかは、未だ私にはわかりかねる。しかし何が賢明な生き方かは最近ようやくわかってきたつもりだ。私自身の人生はともかく、これからの社会を担う子供たち、例えばうちの甥っ子などにはより賢明な道を歩んで欲しい、と思うのである。
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