第281話 キリスト教について

文字数 839文字

 まず初めに断っておきたいのだが、私は研究者でも専門家でもない。これはまったくの素人が勝手に持論を述べるだけの文章だ。その事を踏まえた上で、興味のある方はお読みいただければ幸いだ。



 結論から言うとキリスト教ってのは「俺知らね!」と、イエスが処刑されるその土壇場で、イエスを裏切った弟子たちの《罪悪感》から生まれた宗教なんじゃないかと思う。
 
 弟子たちの想いはこうだ。

「あいつはいけ好かないすかした野郎だった。汝の敵を愛せよとかってマジすかしてる。でもそんなすかした野郎だったけど、俺たちのために命をなげうってくれた。奴の事を心から憎むとともに、俺たちは奴の事を心から愛してもいた。俺たちには手の届かない存在だった。今更こんなことを言うのもなんだが奴には悪い事をした。何とか奴の事を後世に伝えねば・・・。

 このような使命感と言うよりも《罪悪感》から生まれたのがキリスト教なのではないかと・・・。そう思うようになって久しい。キリスト教の《原罪》の概念は詰まる所弟子たちの《罪悪感》であり《良心の呵責》なのではないか?

 処女懐胎とか復活とかそんなのは後付けの権威付けのインチキだってのは誰だってわかる。私はもっと生々しいイエス像を心の中に描いている。

 結局、キリスト教と言うのは最後まで自分の意思を貫いたアウトローで負けず嫌いの頑固者とそれを取り巻く人々との関係性(手の届かない存在への愛と憎しみ・嫉妬と羨望)に端を発する《罪悪感》から成る一連の《物語》なのではないか?

 あくまで素人の一見解にすぎませんのでキリスト教のえらい方々や専門家の方々はどうぞあまり目くじらを立てないで読み流してください。

 さて、皆さんはイエスについてどうお考えですか?えっ考えた事もない?まあそれが普通ですよね。ただ、いつも我々が当たり前にしている事を深堀してみるととても面白いロジック(ダイナミズム)が隠れているものです。たまには立ち止まって「そもそも・・・・?」って考えてみると面白いですよ。ではまた!
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