第301話 愛の才能

文字数 1,235文字

 先日から『宝石の国』(市川春子①~⑫ 講談社)を読んでいる。現時点で8巻まで読んだ。面白い。以前にこの人の短編集を読んだ事がある。独特の世界観とそれでいてポップな絵柄が印象的だった。その世界観を本作でも引き継ぎ、より深めている。才能だなぁ~と思う。

 才能とは詰まる所セルフィッシュな(自分勝手な)ものだと以前このブログで書いたことがある。完璧な人間など存在しないという前提に立つならば、何か特別に秀でたところがあれば、その分どこかで欠けた部分があるのではないか?と考えるのは自然な事だ。
歴史上の人物を振り返っても、人格的に円満でしかも才能に溢れている人など聞いたことがない。円満な人格と強烈な才能が併存するなどおかしな話だ。この『宝石の国』の作者である市川春子さんもそうなのだろうか?

 私自身、才能の欠片の、そのまた余光のようなものが仮に、仮に在るとすればだが、やはりどこか欠けている部分があるのではないか?そう思っていた。そんな折、職場の学童で経営者の先生から「長谷川先生は、もっと子供の立場に立って考えた方がいい。そうでないと他の職員の信頼は得られないよ。」と言われた。きっかけは大画面のテレビで子供達に映画を見せた時のことだ。賞味2時間程度の『ドラえもん』の長編を2回に分けて観せたのだが、前半を止める際、私は良かれと思ってちょうど1時間過ぎたところキッカリで止めた。でも、先生がおっしゃるには「止めるのは時間キッカリでなくてよい。子供達が納得するキリのいい場面で止めればよい。」との事だった。その方が子供達の意に沿っていると。それを聞いてハッとした。どうも自分は自分自身に対して誠実で在ろうとするだけで、子供達の、ひいては相手の立場に立つという視点が欠けていたのではないかと。相手の立場に立つとは、すなわち相手を思いやる事であり、ひいては相手を愛するという事だ。私は私自身の理想や哲学に忠実であろうとするだけで、目の前の相手を思いやるという極々基本的な事が出来ていなかったのではないか?つまり自分自身にしか興味がないのではないか?と自己嫌悪した。

 その昔90年代終わりころのアーティストに川本真琴さんがいる。彼女が岡村靖幸作曲・川本真琴作詞の楽曲『愛の才能』の中で「愛の才能ないの♪今も勉強中よSOUL!」と歌っていた。リアルタイムでは意味が解らなかったが、今なら解る。どうも私にも愛の才能はない様だ。

 そんなことを思いながら大晦日の今日2022年を振り返っている。来年は目の前の子供達をもっと愛せる様にならなければ・・・。無論甘やかすのとは別の意味で。

 さて、これが本年最後の投稿となります。皆さんにとって来るべき年が良いものとなるよう祈っています。本年はお付き合いいただきどうもありがとうございました。来年もまたよろしくお願い致します。それではよいお年を。
               
  2022年12月31日  長谷川 漣

『宝石の国』面白いです‼‼‼

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