第130話 如何せん

文字数 1,583文字

 今日とある病院で医療事務を務める友人と食事をした。友人曰く、その病院には患者さんや外来用に目安箱が設置されている。ある日その目安箱に「清掃員に挨拶をしたのに挨拶が返ってこなかった。」とお怒りの投書があったそうな。その清掃員には知的障害があった。友人が言うには「その投書をした人は腹を立てるだけまだまし。」との事。「多くの人は(その清掃員に知的障害がある為)挨拶しても(言い方は悪いが)まともに返ってこないのを承知しているので腹を立てる事もないし、そもそも挨拶すらしない。」と。私は気になった。「それって相模原の障害者殺傷事件の植松聖被告の『意思疎通をできないものは生きていてもしょうがない。』という発言を一部ではあるけど肯定することになるんじゃないの?病院という場所がそれでいいの?」と言うと、友人は「植松聖被告の発言を認めるわけじゃないけど、ある意味それは仕方ない事だ」と。「それをいったら俺たち医療事務は医師に挨拶するけど、医師が挨拶を返すことは基本ない。」と。「医療の世界は平等じゃないよ。医療カーストはあって当たり前だよ。」と。「だって、いざという時、俺たちは命救えないもの。今だってそうでしょ。コロナウイルスと最前線で戦っているのは医師と看護師たちだもの。背負っている責任とリスクの重みが違う。医師が挨拶しても返さないのは当然と言えば当然なんだよ。」他人様の職場の事をああだこうだ言うつもりはないし、言える立場にもないのだが、何か割り切れないものが残った。もしその清掃員がそんな風に見られているのだとしたら、それは何か違うと思う。    
 以前ベトナムの少数民族の村を見学するツアーに参加した事がある。村に唯一の学校を訪れた際、あるアメリカ人の地理学者がパシャパシャと授業風景を写真に撮っていた。私は無断でシャッターを押すのは失礼なんじゃないかと思ったが黙っていた。現地の住民に対してその生活を見せてもらうのだからと、拙いベトナム語で挨拶をしていた私にそのアメリカ人は言った。「君のやっていることは自己満足に過ぎないよ。」英語だったので正確には解らなかったが、そのニュアンスは伝わってきた。ツアーの最後に少数民族の村を出る際、都市部から持ち込まれた大量のゴミの山のわきを通った。無論そのコースは少数民族からの我々に対する当てつけだ。「これがあなた方のしている事なのだよ。」と暗にほのめかしているのだ。それを見た時、私はやりきれない気持ちになった。そのアメリカ人の地理学者の言わんとすることが良く解ったのだ。少数民族に対して礼儀正しく接するのは、結局のところ上から目線の自己満足に過ぎない、と彼は言っていたのだ。彼に言わせれば、知的障害のある清掃員に挨拶するのも同じ事かもしれない。果たしてそうなのだろうか?この地理学者の言う通りなのだろうか?私にはわからない。ただ簡単に割り切ってはいけないと思う。孔子が言っている。「之を如何せん、之を如何せんといわざる者は、 吾之を如何ともすること末きのみ。」「どうしよう、どうしようと思い悩まない者はこの孔子もどうしようもないよ。」孔子の言葉を思い返していたら、前回書いた「成長」という言葉の定義が少しわかった気がした。成長とは「思い悩む事、葛藤する事」に他ならないのではないだろうか?逆に言えば悩まなくなったら、葛藤しなくなったら成長は止まってしまうのではないか?少なくとも悩み続ける、その姿勢が成長につながるのではないか?いわゆる「医療カースト」についても、「文明の押し売り?」についても、何が正しいかは容易には判断できない。ただ、「そういうものだから」と簡単に割り切ってはいけないと思う。思い悩むことそれ自体が一つの答えなのではないか。この文章をお読みの皆さんはどう思われますか?悩んでますか?葛藤してますか?
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