第20話 5歳のモネ

文字数 1,346文字

 NHKの『クローズアップ現代+』で相模原の障がい者施設での事件を扱っていた。殺害犯の「障がい者は必要ない」という意思表示に対し、ジャーナリストの池上彰氏が「人権の大切さを学ばねばならない」という意味合いのことを述べておられた。私も高校の授業で「誰もが生まれながらにして持つ人権」という文言を暗記した覚えがある。「人権」という考え方の成り立ちをもっとよく学んでおけばよかった。今からでも遅くはないので、ロック?ルソー?をちゃんと読んでみようと思う。さしあたって今わかる範囲で「人権」について考えてみた。と言ってもなかなかピンと来ないのが現実だ。本気でルソーを読んでみようかと考えていたそんな折、考えるヒントは意外なところにあった。
暇にかまけてPCで「モネ」の絵を画像検索していたところ、ひときわ心惹かれた絵があったので調べてみた。すると、それはモネ本人の絵ではなく「5歳のモネ」と評された当時5歳の女の子の絵だった。この女の子は自閉症で人と目を合わせようとせず、言葉を発しなかった。だが、親が絵具を与えると、とても5歳の子供とは思えない絵を描いた。描くという表現手段を獲得してからこの子は徐々に心を開き、言葉も話すようになっていった。
 この女の子には才能がある。それは本当に素晴らしいことだ。両親もそれを発見できてうれしかったと思う。ただ、もし絵が描けなかったとして、もしくは下手だったとして、そのことでこの女の子に対する両親の思いは変わっただろうか? 
 そんなことはないと思う。世間の評判とか、損得勘定とは別のところで、この女の子は両親にとって大切な存在だと思う。おそらくそれが愛情というものだろう。愛情に実体はない。愛情とは関係だ。それは血縁とは限らない。血のつながりがなくても強く深く結びついた関係はあるからだ。どれだけ深く、かつ多くかかわってきたか、つまりコミュニケーションの密度と量が問題なのだ。コミュニケーションの密度と量に比例して愛情も深まるのかもしれない。何が言いたいかというと、障害があろうがなかろうが、血縁関係があろうがなかろうが、コミュニケイトする誰かがいる、つまり愛情を注ぐ誰かがいる以上、すべての人に価値があるということだ。その意味であらためて「障がい者は必要ない」という発言は間違っている。健常者であれ、障がい者であれ、誰にでも「人権」があるからそのような考えは許されない。と言えばそのとおりだ。ただ、この「5歳のモネ」から考えるに、「人権」という考え方を実質的に成り立たせているのは、やはり「その人と関わりをもつ誰か」の存在なのではないか。たった一人で誰ともかかわることなく生きている人がいたとする。この人に「人権」はあるだろうか。もちろんある、生まれながらに持つのだから。だがその場合、「人権」は非常にあやふやなものになってしまうのではないか?たとえ憲法なりなんなり(自然権)が保証していてもだ。だからこそ孤独な人を作るべきではない。人は何らかの形で誰かとつながるべきなのだ。誰でも趣味や共通の話題を分かち合えるように、孤独な人は孤独という状況を分かち合える誰かが必ずいるはずだ。と思いたい。私自身この文章を書いているのは誰かとつながりたいからかもしれない。
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