第342話 良い相撲、良いサッカー、良い生き方

文字数 1,259文字

最近相撲をテレビで見る機会があった。ある力士が相手を右手・左手と2度にわたり平手打ち(相撲用語で張るという)をした場面を見た母が憤慨して
「あれは良くない相撲だね!やられたほうは腹が立つよ!あんな相撲大関がとっちゃだめだよ!」と言った。それを聞いた私は
「ふーん。相撲にも良い相撲と良くない相撲があるのか。」と妙に納得してしまった。
「じゃあさ、いい相撲ってどんな相撲?」
と聞くと、母は
「そりゃ正々堂々とした相撲さ!」
と答えた。私はこれまた納得して
「確かに、勝ちさえすればいいって相撲じゃ、見ている方もつまらないしな!同時にだまし討ちやフェイクが許されるのは体格的に劣る方だけってことか・・・。」

良い相撲と良くない相撲の区別はまだ私には難しい。でも、良いサッカーと悪いサッカーについてなら私にも語れる。私の考える良いサッカーとは、足元の技術が高く、その技術をもとに繋ぐサッカーだ。そして最後には“違い”を作り出せる選手が(それはネイマールだったり、メッシだったり、一昔前だとロナウジーニョだったりするわけだが)局面を打開してゴールを決めるというものだ。逆によくないサッカーとは・・・。おっと、これについて語るのはやめておこう。

なんにせよ、ひとつの競技を長い間見てくるとその競技の理想形(お手本)のようなものが自分の中にできてくる。

さて、ここで話は飛躍するが、 我々の“生き方”にも理想形ってあるのだろうか?

今朝のNHKニュースで長渕剛さんを取り上げていた。長渕さん曰く「20代のころは自分のためだけに生きた。でもそこから得られる喜びには限界がある。自分以外の誰かのために生きてこそ本当の喜びが得られる。」とのこと。すごい。さすが長渕さんだ。私などは40年以上自分のためだけに生きて来たがこの体たらくだ。長渕さんはカッコいいと言わざるを得ない。

自分のために生きるのか?自分以外の誰かのために生きるのか?どちらがより理想の生き方に近いか?私にはわからない。ただ、人と人との間に生きるのが、つまり関係性の中に生きるのが“人間”なのだとすれば、自分のためだけに生きるというのはやはり少し寂しい気がする。自分以外の誰かのために生きて初めて人は人間たり得るのかもしれない。
なんにせよ、少なくとも死の間際には「十分活きた。大満足の大正解。」と言って死んでゆきたい。つまるところ、良い生き方とは良い死に方と表裏一体のものなのだ。であるならば、“良い死に方”をするためには、どうすればいいか?を考えることが“良い生き方”への近道なのかもしれない。

 さてこの文章をお読みの皆さんは良く生きていますか?それとも忙しさの中で日々追われていますか?はたまた、のんべんだらりといたずらに日々を送っていますか?この間、読んだ本に書いてあったのですが、健康で暇な時ほど“自分の死”について考えてみるといいらしいですよ。いい意味で「死」を意識して、はじめて「生」が充実するのかもしれません。

何だか説教臭い終わり方になってしまいましたが今回はこれで!

ではまた!
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