第219話 Forget me not

文字数 1,720文字

今回はずばり大衆娯楽と文学性の差異について考えてみた。
決して大衆娯楽を馬鹿にしているわけではない。
文学性との絶妙なバランスが必要なのだと思う。

そこで「死」というテーマについて
二つの作品を比べてみる。

1つは漫画『One piece』(尾田栄一郎先生・集英社)だ。
これについては今更解説するまでも無いだろう。
万人受けする大衆娯楽の最たるものだ。
私も全部読んだことはないが
有名なエピソードはもちろん知っている。
麦藁の一味の「船医」であるチョッパー。
彼が仲間に加わる際のエピソードで
「死」がその重要なテーマとして扱われている。
このエピソードの中で
チョッパーの師であるドクターが名言を残している。
「人は人から忘れ去られた時に死ぬのだ」
その通りだと思う。逆にいえば忘れられない限り
人々の心の中でその人は永遠に生き続ける。
だから人はいつまでも自分の事を忘れないでいてほしいと願う。
忘れられたら寂しい
特に自分にとって大切な人に

ごくごく「自然な感情」だ。
だからこそ、このエピソードが多くの人の心に届いたのだろう。
まさに「forget me not」なのだ。 
これぞ王道というべきだろう。

これに対して「筋肉少女帯」大槻ケンジ作詞の
「バトル野郎〜100万人の兄貴〜」
(カプコンのスーパーファミコン用ソフト「ストリートファイターII」のCMソング)
の歌詞が面白い。
この曲の中盤に出てくる

「俺が死んでも泣いちゃいけない笑えよ!
ヒュルリラ ヒュルリラ
風に流して忘れろ!」

というフレーズ、
『One piece』の例と真逆のことを言っている。
しかし何故かこの部分に私は心惹かれる

『One piece』で語られる感情はもっともなのだ!
誰だって自分の事を忘れてほしくない。
しかし、それを重々承知の上で
「風に流して忘れろ」
というフレーズに心を奪われてしまうのだ。
誰もが感じる最大公約数的な感情を超越したところに
ある種の美学のようなものを感じる。
「かっこいい」のである。
つまりはこれが大衆娯楽と文学性の違いなのではないだろうか?
最大公約数的な感情を突き抜けた
その向こう側にある美学なり哲学なり(芸術性?)
そういうものに我々は惹かれてしまうのではないだろうか?
若しくは、そこにいまだ汲み尽くされていない感情を
我々は見出すのかもしれない。

結論はというと
私だって自分にとって大切な人に自分の事を忘れてほしくはない。
ただ、そういうごくごく当たり前の感情を突き抜けた境地に
ある種のあこがれを抱いてしまうのだ。
それが大衆娯楽と文学性の違いなのではと思った次第だ。

ただ誤解しないで欲しいが
決して「死」を美化するものではない。
はっきりと述べておく。

もし私のように感じる方がいらっしゃいましたらシェアしてください!
よろしくお願いします。
なお、歌は文学ではないとの見方もあるかと思われますが
そこはボブ・ディランの例もあるのでひとまず置いておきます。


PS
村上春樹氏の『ノルウェイの森』は「死」というテーマを
大衆性と文学性において見事に両立させているのではないでしょうか?
初版から長い年月を経てもなお色あせない理由がそれかと思われます。



バトル野郎 ~100万人の兄貴~(1992)
歌:筋肉少女帯
作詞: 大槻ケンジ
作曲:本城聡章

極めろ!道 悟れよ!我
極めろ!道 悟れよ!我

なんで戦うかは
後々にしようぜ
死ぬも生きるも
ヒュルリラ
ヒュルリラ
バトル野郎
(行くぜ)戦いの道もえもえ燃えて
バトル野郎

極めろ!道 悟れよ!我
極めろ!道 悟れよ!我

俺が死んでも
泣いちゃいけない笑えよ!
ヒュルリラ ヒュルリラ
風に流して忘れろ!
(そこで)戦いの道もえもえ燃えて
バトル野郎

極めろ!道 悟れよ!我
極めろ!道 悟れよ!我
極めろ!道 悟れよ!我

生まれながらの性で
断末魔の時さえ
心で笑う男
戦うか!この俺と君は?

人生ホラ
何処にも逃げ場はねえのさ
天王星まで逃げたって
弥勒菩薩の手の上
(だから)戦いの道えらえら選ぶ
バトル野郎

極めろ!道 悟れよ!我
極めろ!道 悟れよ!我
極めろ!道 悟れよ!我
極めろ!道 悟れよ!我
極めろ!道 悟れよ!我
極めろ!道 悟れよ!我


なおこの文章をUPするにあたり友人に推敲をしてもらいました。
ここに敬意と感謝を表します。
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