第193話 とっぽい人

文字数 1,332文字

「こんなに
憎み合うのは
あんなに愛しあったから
なので
しょうか」

 これはイチハラヒロコ氏の現代詩。はっきり言ってこの詩が苦手だ。というか、いわゆる「ドロドロの愛憎劇」というものが私は極端に嫌いだ。昼ドラのそれである。結論から言うと、非常にドロドロしていて中身が濃いようでいてその実、薄っぺらいと思うのだ。偉そうなことを言うようだが「人を好きになる、愛する」というのは相手の欠点や落ち度を含めて受け入れるという事なのではないだろうか?その相手の美点だけを見てのぼせ上って、共依存の関係に陥り、いざ、一時の熱情が裏返るとそれが憎しみに転化する。独占欲だか何だか知らないが、簡単に言うと各人が独り立ちできていないのだ。悪意や憎しみを容赦なくぶつけるというのは、精神的な幼さ、言い換えればお互いに対する甘えなのではないだろうか?甘え合えるというのはそりゃ幸せなことだが、単に人間としてカップルとして幼いともいえる。それに対して次の詩もイチハラヒロコ氏によるものだ。

「いつ
えらばれてもいいように
いつ
すてられてもいいように」

こちらの詩の方が私はよっぽど好きだ。基本的に人って自分の足で立つものじゃないの?という観念が私の中にはある。その上で他者とかかわっていくものなのではないだろうか?こちらの方が、どんなに愛し合っていてもあくまで自分は自分、相手は相手なのだという、共通の理解のもとにその関係性が成り立っている気がする。なんだかよく知らないけどフランス人のおとなのカップルの様だ(笑)。
 
さて、村上春樹氏によると日本の近代文学の主流は前者のドロドロの関係性を描くことにあったとの事。夏目漱石の『こころ』然り、谷崎潤一郎の『痴人の愛』然り。ただ異彩を放つのが宮沢賢治の一連の作品群。『銀河鉄道の夜』などはそのよい例である。テーマとスケールが違う。なんでもある研究者に言わせると宮沢賢治はいわゆる恋愛らしき恋愛をしたことがなかったのではないかとのとの事。男女の関係性などよりも「本当の幸せ」を探し続ける事を彼が生涯のテーマとしたのも解る気がする。もし、宮沢賢治が凡百の「ドロドロ愛憎劇」など描いていたら今に名は残っていなかったと思う。
 にもかかわらず、なぜ、「ドロドロ愛憎劇」が一般受けするのだろう?これもある作家の受け売りだが
「人は理念や理想の為に戦うのではない、理念や理想を体現した人のために戦うのだ。」
つまり、つまり人は自分同様、血の通った触れることのできる人間を求めるのであって、何か抽象的な理念や理想を求めるのではないという事(もしくはそれができるのはごく一部のある意味特殊な人)ということなのだろうか?その辺が一連の日本人作家と宮沢賢治の違いなのだろうかとも思う。抽象と具体、理想と現実と言った二項対立で考えることも可能だが、私は単純に宮沢賢治の方が好きだ。全作品を読んだことがあるわけでもないし、この人の生涯を詳しく知るというほどに知っているわけでもない。ただ、いわゆる「とっぽい人」だったのだろうなという事はいくつか読んだ作品からなんとなく推測できる。「とっぽい人」いいじゃないですか(笑)もっと詳しく読んでみたいと思うのです。
(『銀河鉄道の父』門井慶喜著を参照)

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