第117話 繋がりに思いを馳せる

文字数 798文字

 私は聖人君子などではないから、人を憎むことがあるし、憎まれることもある。それこそ殺してやりたいほど憎い人間もいるし、逆に私の事を殺したいほど憎む人間もいる事だろう。今「殺してやりたいほど」と書いたが、それが完全な殺意へと変貌しないのは我々が「思いを馳せ」ているからだ。「この人間にもこの人間なりの立場や境遇があり、家族がいて友人がいて恋人がいて」と「思いを馳せる」。すると「この人間」が「この人」になる。そこに「寛容さ」が生じる。これを「許し」と言う。もしこの「許し」がなければ、その憎しみは明確な「殺意」になりかねない。そう考えると我々の社会に秩序をもたらすカギとなるのは「人と人との繋がり」なのかもしれない。もし憎しみの対象が誰とも繋がっていなければ「こいつを殺しても誰も悲しまない」という危険な方向へ思考しかねない。つまり「繋がり」とは相手を守り、ひいては自分自身を守る盾なのだ。巷に「絆」と言う言葉が溢れているが、この「絆」とは何も助け合いの大切さを意味するだけの言葉ではない。「憎しみ」から我々自身を解き放つ言葉でもあるのだ。その意味でも我々は誰かしらと繋がるべきだし、孤独な人をつくるべきではない。
 現在SNSなどでの誹謗中傷、炎上、などが問題となっているが、それはこの「繋がり」と、その繋がりに「思いを馳せる」と言う行為とが欠落しているからではなかろうか?だから「非寛容」が蔓延し、結果として誹謗中傷や炎上が後を絶たない。立ち止まって「思いを馳せる」事が求められるのではないだろうか?話は飛躍するが、戦争が根本的に間違っているのは、「立ち止まって思いを馳せる」事が公的に禁じられてしまうからだ。そう思うようになって久しい。月並みだが平和の近道は相手の繋がりに思いを馳せることかもしれない。
この文章をお読みの皆さんは誰かと繋がっていますか?そして相手の繫がりに思いを馳せていますか?
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み