第73話 馬鹿な漢(おとこ) 

文字数 1,774文字

 私の友人は具体的な物事の背後にある事の本質をギュッとつかんで、それを一言で表すのが得意だ。以前私が『罪と罰』って読んだ事ある?と聞いて「要は、良心の呵責でしょ?」と答えた彼だ。その友人ほどではないが、私にもそういう癖がある。物事の裏側の真理を述べて、さも自分が賢者であるかのように錯覚する癖だ。嫌な癖ではある。何故嫌な癖なのかって、多くの人が嫌な思いをするからだ。何故嫌な思いをするのか?逆説的ではあるが、それがまさに事の本質をついているからだ。つまりは見たくもない、知りたくもない、聞きたくもない事の本質と言うやつを、私の言葉があぶり出すのだ。言い換えると真実って多くの場合醜いものなのだ。いつもはオブラートにくるんである醜い真実があらわになる。それを周囲の人は嫌がる。嫌な癖なわけだ。
 
 例えば「真実の愛」という言葉がある。まあ、ごくありふれたフレーズだが、何故このフレーズがこれほどまでに人口に膾炙しているのか?それは「真実の愛」なるものが巷に溢れているからでは決してない。逆にこの「真実の愛」なるものが極々稀だからこそ人口に膾炙しているのだ。この事から極論するなら、世間は醜聞で溢れている。決して美談ではない。それがリアルなのだ。
 
 結婚式のスピーチで聞かれる新郎新婦のなれそめは美談や微笑ましいものと相場が決まっている。でもその実はどうか?相手の年収は?社会的地位は?家柄は?経歴は?それ等を踏まえて結婚という妥協点へと着陸するのが現実だ。でもそんな現実誰も知りたくはない。人は誰でも、直視したくない現実よりも、心地のいい嘘を信じたがるものなのだ。事実そうして人は多かれ少なかれ、人をだまして自分をだまして、心地の良いオブラートにくるまれた毎日を送っている。
 
 誤解してもらっては困るが、私はそうした人の在り様を否定するのでは決してない。むしろそれでよいと思っている。それが圧倒的大多数の人としての極々当たり前の在り様だ。そうしてみんな幸せを手に入れているのだ。ただ、そうでない人が極々一定数はいた。私の好きなルターもそうだし、地動説を唱えたがために火あぶりになったジョルダーノ・ブルーノもそうだ。最近では忌野清志郎さんもその類だろう。またこうも言う。「いつの時代も子供と気違いは常に真実を言う」と。黙っていればいいのに、「馬は馬だし、鹿は鹿だ!」と言ってしまう馬鹿な漢たち(中国の故事。気になった方は調べてください)が一定数はいたのだ。そしてそういう馬鹿な漢というのが私は好きで、好きで仕方ないのだ。どうも困った好みと言うほかない。もっと困った事には、私自身そうした損な生き方を、あろうことか実践しようとしている節がある。
 
 学童の子供たちによく「先生結婚しないの?」と聞かれる。「そんな甲斐性、私にはないんだよ。」といつも答える。私が「我ながら見上げたものだ。」と感心するのは、自分のわがままに他者を巻き込んではいけないと大まじめに考えている点だ。言い換えると「出来るだけ他人に迷惑をかけず、自分勝手に生きていこう。」と思っている点だ。

 先に述べたルターやジョルダーノ・ブルーノや忌野清志郎さんのような生き方をするのなら、家族に迷惑をかけるのは必至だ。だとしたら家庭などはじめから持たない方が良い。と分不相応にも私は考えている。殊勝な心掛けと言わざるを得ない。
 
 でもまぁ、それとは別に迷惑のかからない範囲で付き合えるパートナーは居たらいいなぁとは思う。これって我がままというべきだろうか?
 
 さて、取り留めない事を述べてきたが、何が言いたいかというと、要は、「俺っていい漢(おとこ)だなぁ。」と、ただ自画自賛したい。それだけの文章だ。でも自分で自分を褒めるってとても精神衛生上いい事だと思う。この文章をお読みの皆さん真似してみたらいかがだろうか?きっといい漢になれること請け合いだ。ただ、私の経験上、本当にいい漢というのは決して世間一般的な意味での幸せなどは手に入らない。と言うか手に入れたいとも望まない。むしろそういうステレオタイプの幸せなんて銀河系の向こう側に蹴っ飛ばしちまう事、それが初めの一歩なのだ。
 
 いい漢かどうかはともかく、真実に生きるって多分そういうことだと思う。


PS。要は結婚できない中年男性のボヤキです(泣)。
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