第336話 なぜなら我々は・・・

文字数 1,417文字

 「人間性について絶望してはいけません。
  なぜなら我々は人間なのですから。」

アインシュタインの言葉だ。

 当人に言わせると「ある時は偶像視され、ある時は憎まれ、唾を吐かれ、ある時は忘れ去られ、またある時は聖人に列せられる。」そのような人生を送った彼だ。ややもすると人間という存在に絶望したくなる時があったのだろう。そんな時、自らを戒めるための言葉がこれだったのではないか?そう思うようになって久しい。


 話は移る。先日、ある女優が浮気をした。多くの女性がそうであるようにゴシップ好きの母が「あの女優、浮気だって。どう思う?」と私に問うてきた。私は「知らね。」と返しておいたが、内心「そんなどうでもいいことに興味を持つ自分がどう見られているか?そこにこそ関心を向けるべきでは!」とは思った。その後もマスコミはその女優と3人の子供との関係とか、夫とのやり取りとか、彼女の周囲の人たちをも巻き込んで根掘り葉掘りくだらないことを公共の電波でもって垂れ流し続けた。


 その昔、不義を働いた女性に対し、周囲の人々が罰として石のつぶてを投げた。
「この中で不義を働いたことのない者だけが石を投げよ。」
と言ってその場を治めたイエスは確かにナイスガイだった。

 それから2000年。今回のマスコミの報道の有り様から見ても、どうも大衆という存在の本質にそれほどの変化はないらしい。こういう時、私は自身を含めて大衆という存在が心底嫌になる。インテリを気取るわけではない。気取るわけではないが、大学に余計に2年も通ったという自負が私にもないでもない。うちの母などに言わせると、「余計に2年も仕送りしたんだから」という事になる。でもと言うか、だからと言うか、そんな時こそ、このアインシュタインの言葉を思い出すようにしている。

「人間性について絶望してはいけません。
  なぜなら我々は人間なのですから。」

 例えそれが自己を戒めるためだったとしても、例えポーズだったとしても、人間(大衆)という存在に寄り添おうとした彼の意思が伝わってくる。アインシュタインって立派な人だったんだな。と思う。

 彼とは逆に大衆を見下した表現として「パンとサーカスの都」がある。古代ローマを表したものだ。当時の皇帝や有力者が大衆に食料や見世物を提供することで人気取りをし、己の権力の保持に努めたという意味だ。

 当時、ある哲学者は見世物の1つである剣闘に反対していた。それは人道上の理由からではなく、あくまで哲学上の考え方に反するから(心の平安を至上とするストア派の考え方に反する)というものだった。

 面白いのは、ある剣奴の宿舎の壁に発見された落書きが、「ルキウス・アンナエウス・セネカ。」つまり、その哲学者のフルネームだった事だ。その剣闘奴隷がどんな気持ちでその哲学者(セネカ)の名前を記したのか?我々大衆は、そう言う点にこそ思いをいたすべきなのだ。そうすれば、そうすればもっと・・・。

 何を言いたいかというと、俺たち大衆も、もちっと進歩しようぜ!という事だ。アインシュタインはこうも言っている。

「人間の真の価値は、おもに、自己からの解放の度合いによって決まる。」

そんなの無理だよ。という人は3年B組金八先生の中で金八が言っている。

 「立派な人になんかならなくてもいい。感じのいい人になってください。」

それなら何とか!という方、私も同感です。その辺りから我々大衆も進化していこうではありませんか!
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