第170話 「迷い」と「決断」

文字数 1,489文字

 最近迷った事がある。「資格試験を受けるべきか否か」だ。今の職場で仕事をしていく上で必要不可欠ではないが、あるに越したことはない「資格」だ。ただその為には、試験当日、会場までの往復3万円の交通費が必要だった。非正規の私にとっては馬鹿にならない金額だ。致し方ない先行投資と考えるか、その「資格」が本当に必要なのか、「迷い」に迷った挙句、以下の如き「決断」を下した。
 誰が言ったか知らないが「サッカー選手にとってタイトルは「御守り」になる」との事。「自分は以前所属していたチームでこれだけのタイトルを取った、だから今度のチーム(例えば海外)でも十分やれるはずだ!」そういう自信を与えてくれる。その意味でタイトルは選手にとっての「御守り」なのだ。これは何もサッカー選手に限ったことではない。「資格」にしても「学歴」にしても同様の事が言える。私自身「学歴」という「御守り」にずいぶん助けられてきた。私は以前、私立高校の世界史の教員を務めていたが、正直に言って私の専門だった世界史の採用試験の大方は人物名・事項・年号の暗記、そしてそれらを正確に順序立てて並べるという独創性も創造性もない類のものだ。ただ、そういう試験のナンセンスさを踏まえた私学ではいわゆる処理能力を競うよりも、論文で論理的思考力を問うなり、その学生の独創的な視点や模擬授業・人間性を評価して採用を決める。それを肌で感じていた私はいわゆる年号・事項の暗記的な勉強はろくにせず、その分本やマンガを読んで試験に臨んだ。結果、採用にこぎつけたわけだが、その際も「学歴」が「御守り」になっていたのは事実だ。確かに「御守り」の力は有効だった。だが果たして今回はどうか?資格試験は「資格」を取ること自体が目的化しており、いわば暗記の為の暗記だ。実際に仕事で使う為にはその都度、辞書的にテキストを用いる必要がある。どんな試験だって同じだが、受かったその日から忘却が始まるからだ。だとしたらいわゆる「御守り」としての「資格」よりも実際に仕事で生きる使い方を学ぶべきではないだろうか?話は移るが、最近読んだ漫画に林真理子先生の原作を東村アキコ先生がマンガ化した『ハイパーミディー中島ハルコ』がある。主人公の中島ハルコは52歳の×2の独身女性で、とにかく仕事ができて、思ったことをズバズバという名古屋出身の女性社長だ。彼女のセリフに「あの頃の私はまだ私じゃなかったのよ」「だから2度目の結婚なんかしたのよ」がある。その頃の彼女(まだ本来の「私」じゃなかった彼女)にはまだ、結婚という「御守り?」が必要だったのだろう。(周囲の目や時代も影響したのだろう)結局その結婚は亭主の浮気で幕を閉じハルコは「本当の私」を手に入れることになるのだが・・・興味のある方はご一読をお勧めする。何が言いたいかというと、この中島ハルコと同様「私」は「本当の私」を手に入れたのだという事。(逆説的ではあるが一度は精神に破たんをきたして「私」を失ったことがそれを可能にした。)だからもはや「御守り」は必要ない。どんなに「御守り」をたくさん持っていても、交通事故にあう時は合うし、気がふれる時は気がふれるのだ。そう思った瞬間、私は「資格」は必要ない!という「決断」を下した。そのことが不利に働くとしたらそれはそれで仕方ない。
 「御守り」はあるに越したことはないし有効なのも確かだ。でも、「御守り」は万能ではないし、不惑(40)を越していつまでも「御守り」に頼っているのもどうか?この文章をお読みの皆さんは「御守り」持っていますか?
以上が私の最近の「迷い」と「決断」です。
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