憲兵隊宿舎の戦い
文字数 3,569文字
陸軍第十三棟男女共同独身寮、通称憲兵隊宿舎は、ゼフェルの後継軍たちにとって最初の戦場として相応しいとは言えなかった。そこは工兵たちの宿舎の隣であり、従って工兵たちは
加えて憲兵隊宿舎は保安局本部と違い、文明退化以前の建物ではなかった。砂袋が常備されているわけでもなかった。煉瓦と漆喰の門で囲まれた煉瓦と漆喰の建物であり、二階建てで、東西に長く、出入り口となる門は南に一ヶ所あるだけだが、いよいよ車付きの小型の破城槌が通りをやってくるのを見ると、後継軍の反徒たちは絶望の叫びを上げはじめた。門扉は木製で、
反徒の一人が破城槌の屋根に火矢を射掛けたが、効果はなかった。いよいよ槌が最初の一撃を門にくらわすと、門扉に亀裂が走り、閂はへし折れ、真後ろにある大楯は急に頼りなく薄っぺらい板材のような存在と化した。
宿舎の平屋根に配置された反徒たちは、自分たちの城砦が砂上の楼閣に過ぎないことと、悲劇的な最期を悟った。
前庭で槍を手に待機していた反徒たちもまた、想像より遥かに呆気なく門が破壊されると、恐れをなして一人、また一人と持ち場から逃げ去った。東西に長い建屋に沿って左右に散る彼らを引き留めたのは、玄関扉を開け放った後継軍の幹部だった。
「『
彼が抜剣した同志たちを引き連れて庭に出てくると、破城槌の二撃めが門を襲った。
「それまで持ちこたえるよりほか、我らが生きのびる道はない! 迎え撃て! 逃げ去る者はこの俺が
戦闘が始まった。憲兵隊宿舎の扉は再び内側から閉ざされた。後継軍の射手たちは、退路を失った同志たちが――また勇敢な幹部も――逃げ場のない前庭で次々と倒れていくのを目にした。彼らが窓から矢を射続ける間に、屋上では
『憲兵隊宿舎に動員可能な全ての同志は、背後から陸軍部隊を撃たれたし』
前庭は骸で埋め尽くされ、すぐには破城槌を搬入できない状態となった。今度は宿舎の全ての出入り口を守るための戦いが始まった。
※
陸軍憲兵隊のケイン・アナテス少佐は、拘置所から十区画と離れていない橋の
「何者だ!」
プリスを載せた馬車の御者は、慌てて馬を止めた。御者席の後ろの席にいたアナテスは、副官のイルメを伴って街路に下りた。随伴する歩兵が背筋を伸ばして静止する。
「私は憲兵隊のケイン・アナテス少佐だ。政治犯の疑いのある者を護送している。このありさまは何だ?」アナテスは引きずられていく死体の服装を見て、眉を寄せた。「あれらの民間人はお前たちが斬り伏せたのか?」
だが、答えはなく、敵意に満ちた修辞疑問が返ってきた。
「憲兵隊だと?」
その態度の意味するところがわからず、アナテスは口を開いたまま物を言いあぐねた。
代わりにイルメが前に出た。
「いかにも私たちは憲兵部隊です。この状況は何事ですか?」
歩兵たちの中から、伍長の腕章をつけた男が進み出て尋ねた。
「アナテス少佐殿、失礼ながら少佐殿は、陸軍憲兵隊宿舎で起きている反乱をご存じないのですか?」
「反乱――」
これにはイルメも絶句するほかなかった。
※
「場所、変えるぞ」
協力者である修道女たちが礼拝を行う修道院の鐘楼で、長弓を手に伏せていたアウィンは素早くアイオラに囁いた。アイオラも囁き返す。
「待って。アナテス少佐は前進するかもしれない」
「いや、引き返すだろ。あの兵士たちはたぶん憲兵隊宿舎の状況を知っている。まともな神経してれば少佐はプリスの移送を中断するはずだぜ?」
「兵士たちが知らなかったら?」
慎重な判断が必要だった。プリスを憲兵隊から救出するための人員は、アウィンとアイオラの二人しかいなかった。二人は精鋭の射手だが、いずれにしろこの位置から狙撃を開始すれば、橋を封鎖する歩兵部隊と憲兵隊、その両方と戦わなければならなくなる。それは避けたい。
「とにかく場所は変える」
「どちらに?」
アナテスが戻るほうか、進むほうか。
「……賭けよう」
アウィンはアナテスが戻るほう、青く丸い天井の王立図書館を顎で指した。
※
「移送は強行させてもらう」
アナテスは決定した。
「本気でございますか」伍長の声に非難の色が混じる。「今まさに、少佐殿の部隊で反乱が起きているのです。何故お戻りにならないのですか」
「戻らないとは言っていない。私とリエルト中尉が戻れば十分だろう。護送は兵士たちに引き継がせる。お前たち――」
背後の兵士を振り向いたアナテスは、視界の端に鈍いきらめきを捉えた。
もし彼が日頃の鍛錬に興味がなかったなら、部下の剣に一突きで刺し貫かれていただろう。事態を把握するより先に、右後ろに飛びすさった。反射的に右手がサーベルの柄を握る。その腕を向けられた剣の切っ先が掠めた。
「何をする!」
イルメの声で我に返った。何が起きたかも理解した。短い悲鳴――橋の向こうから矢が降ってくる。
武装した民間人。
ゼフェルの後継軍だ。
「下がれ!」
命令に従う憲兵はいなっかった。ようやくアナテスは、剣を抜く部下たちの狙いが自分と副官であることを悟った。
橋の向こう側にいるゼフェルの後継たちは、一箇所に集まった陸軍兵士たちを正確に射抜いていく。
「下がれ! リエルト中尉、下がれ!」
イルメが馬車の後ろに回り込み、姿を消す。斬りかかってきた部下の剣を、サーベルを抜きながら払ったとき、横手から槍が飛んできた。
槍はアナテスと憲兵の間を裂き、堅く封鎖された馬車の扉を木っ端微塵に砕いた。
一瞬、中にいるプリスのコーラルピンクの髪が見えた。
耳もとで誰かが囁いた。
「君が下がれ」
低く澄んだ声。漆黒が翻り、視野を染めた。
黒いマント。
黒髪。
一本の三つ編みにした髪の毛先がアナテスの胸の前で踊った。闖入者は目にも留まらぬ早業でアナテスの眼前にいた憲兵を仕留めると、サーベルを踊らせて、たちまち二人、三人と斬り伏せた。
そして馬車に向けて叫んだ。
「逃げろ!」
それを合図に、プリスが馬車からまろび出た。そのとき初めて、別方向から矢が降っていることにアナテスは気がついた。
誰かが高いところから、橋の向こうのゼフェルの後継に矢を射かけている。アナテスは橋の向こうを見た。威嚇射撃のようで、ゼフェルの後継たちは散り散りに逃げていく。プリスはといえば、馬車から出て最初の辻で立ち尽くし、両手を後ろ手に縛られたまま右、左と周囲を見回して惑い、結局右側に逃げていった。
もはや狂騒はやんだ。ゼフェルの後継たちは逃げ、憲兵も、橋を封鎖していた歩兵たちも、もはや立っていなかった。アナテスの前にいるのはただ一人、死をもたらす黒い星、ヨリス。マグダリス・ヨリス。そしてヨリスが四人を斬り伏せている間にようやく一人の部下を手にかけたイルメだけだった。
ヨリスはアナテスを振り向くと、呆れたように口にした。
「また君か」
アナテスの心臓は今にも破裂しそうだった。生き延びた今、この失態の言い訳を考えなければならない。だが、ヨリスがどういうつもりか見極めるのが先だ。
「それはこちらのセリフだ、狂犬マグダリス! よくものこのこと俺の前に姿を現したな。お前はダリル・キャトリン少佐殺しの
「昔のよしみだ。見逃せ」
「そうはいくか!」
「誰が君たちを助けてやったと思っている」
返す言葉もない。
そのとき、修道院のほうから、コバルトブルーの髪をした、浅黒い肌の青年が歩いてきた。矢筒をぶら下げ、長弓を手にしている。
青年、アウィン・アッシュナイトはアナテスを無視してヨリスに声をかけた。
「ヨリス少佐。こちらを助けてくださるのならそう声をかけてくださればよかったのに」
「君たちを手伝いにきたわけではない。リャンのところに行く途中だ」
「偶然通りかかったということですか……」
「ホーリーバーチ少尉はどうした」
「コティー中尉が追いかけています。すぐに追いつくでしょう」
それを聞くと、ヨリスは安心したように革布でサーベルを拭き始めた。悠然と。アナテスは呻く。
「反乱者どもめ」
「どうした。我々を捕まえる君の部下は皆死んだぞ。憲兵隊宿舎に急いだらどうだ? 君の健全な部下たちは捕虜にされているはずだ。それとも、私に剣を向けるか?」
アナテスは首を横に振った。選択肢などなかった。
「本部事務所に戻るぞ」