天使と少女の語歌
文字数 3,258文字
パンを抱えて戻ったとき、ゾレアは安宿のカビ臭い毛布にくるまり二度寝の最中だった。ミサヤが入ってくる気配や物音に
小さな窓の鎧戸は斜めに傾き、光も入るが風も入る。風が鳴るほの明るい部屋で、ゾレアは隙間から差す光に顔を染め、冷たい床に素足を下ろした。
「これからどうしようか考えたが……」
ゾレアは一脚しかない椅子に座り、にこにこしながらミサヤを見ていた。彼女には何の不満もないようだ。寒くても。追われていても。不衛生なベッドで二人並んで眠ることになっても。先行きが見えなくても。
最悪の場合には殺されるかもしれないのに、ただ目の前の冒険を楽しんでいる。
「やはりシオネビュラ神官団が必要だ」
意外そうな目をするゾレアにパンを一切れ差し出した。
「虜囚になると言っているんじゃない。だがシオネビュラの神官たちは、タルジェン島でなにが起きたか知ってるはずだ。ソラート神官団がどうなっているのかも」
パンを口に運ばず、ミサヤの言葉を黙って聞いているゾレアに結論を告げた。
「今日こそ船を探そう。ここに留まっているよりはいい」
※
ミサヤが姿を消したからといって、シオネビュラの神官たちも、さすがにソラート神官団の
安宿を出て、足早に表通りを去る。
蹄の音は入り組んだ路地の中からも聞こえてきた。
最も近い騎兵は、狭い道を直進した先、辻の右手側にいる。あと十秒もすれば辻に姿を見せるはずだ。
「ゾレア。頼む」
両側の建物が作る影の中で、歌流民の少女は眩しい笑みでミサヤを見上げた。
この子が普通の少女だったら、どんな話をする子だったろう、とミサヤは思う。この子の目に映る世界について語られるのを聞きたい。
だがゾレアは歌う。
『
歌うときにだけ、彼女の声を聞ける。
微かな声。
蹄の音が止まる。
歌声は間近のミサヤの耳にもかろうじて聞こえる程度。
だが民兵にも聞こえている。
決して意識できないが、本当は聞こえているのだ。
それは脳で処理されて、意識は歌に従わされる。
『
花咲ク里ニ背ヲ向ケテ
背ヲ向ケテ 背ヲ向ケテ
背ヲ向ケテ 背ヲ向ケテ』
歌が改変され、同じフレーズが繰り返される。
『背ヲ向ケテ、背ヲ向ケテ、背ヲ向ケテ
右ヘ』
「……変だな?」
若い男の声が呟く。
『右ヘ、右ヘ、右ヘ、右ヘ
右、右、右、右、右、右、右、右……』
蹄の音が再開し、気配が迫り、ついぞ馬の首が現れた。白い馬で、鞍に座る民兵は吹き流しのついた槍を携えている。
彼は首を傾げながら、辻の左側にいるミサヤたちにはまるで気付かずに、やたらと右側ばかりを気にしながら角を曲がっていった。
長い馬の尾が揺れながら遠ざかる。姿が見えなくなると、ゾレアはまたミサヤを見上げ、にっこりした。
「ありがとう。急ごう」
ゾレアがいなければ、シオネビュラの神官や民兵たちから一日と逃げ続けられなかったかもしれない。
港のある方向はよくわからなかった。全ての坂を下り続けていればいずれは辿り着けると考えた。
路地を縫い歩く二人は、ある時点でどちらともなく立ち止まった。狭い道の出口が人垣で埋められていたのだ。
ちらりと顔を窺ってきたゾレアの肩を抱く。
「祭か?」
楽隊の調べが来る。人々の背後にそっと近付き、声を拾った。一人の男がこう噂していた。
「まあでも、星獣祭には休戦するって噂じゃないか」
それ以上近寄るのをゾレアが阻止した。後ろから腕を引っ張られ、振り返ると、ゾレアが通りを指差した。
待つこと数秒。
人々の頭越しに、星獣の姿が現れた。
囲いの大陸において絶滅し、星獣の中にのみその姿の名残を留めているという生き物。
キリンだ。
長い首。虹色の
人垣を構成する個々人が感嘆し、どよめく。
何のパレードだ? どこに行くんだ?
ミサヤは雑踏の声に耳を傾ける。
『ねえママ!』『いってぇな』『あれすっごいねえ』『もともと何の動物だろ』『デカくない?』『おやつ!』『あんたいつまで寝てるのよ』そして『タルジェン島の居留地通るんだってよ』
ミサヤはゾレアと手を繋ぐ。パレードに先回りすべく小走りになった。
時折大通りを覗いた。何度目かで
港からは遠ざかる結果となったが、居留地にたどり着いたらすぐにそうとわかった。
その区画だけが、常緑樹の枝と冬の花で彩られ、着飾った人々が出歩いていたからだ。
ちょっとした祭だった。
菓子を商う店は菓子の匂いを、肉を商う店は肉の匂いを、戸口を開けて通りに流していた。織物を商う店は道にまで織物を吊るし、
居留地は歌に満ちていた。
老若男女を問わず通りに出て、人々が歌っていた。
「邪魔だよ」
居留地の入り口を塞いで立つミサヤの後ろから、ロバを引く女がつっけんどんに言い放つ。道を譲ると、ロバの背に幼い子供を乗せた女は大股に通り過ぎようとした。
「待って」
女を追い、ミサヤは居留地に足を踏み入れる。
「みんな何を祝ってるんだ?」
「いい知らせが届いたんだよ」
「いい知らせ?」
よそ者に黄ばんだ歯を見せて、女は笑った。
「ヨリスタルジェニカの正位神官将様が、ソラート艦隊を南洋で打ち破ったんだ!」
ミサヤは口を開けたまま黙った。聞いた内容を理解できなかったのだ。
「ああ、そう」
怪しまれないよう、かろうじて愛想笑いをする。
「それはめでたい」
ヨリスタルジェニカがソラートを破った?
後ずさりながら頭の中で反芻する。
南洋で?
なぜタルジェン島を占拠したソラート神官団が南洋に出ていた?
全艦を洋上に残して姿を消したヨリスタルジェニカの神官が、どうやってソラートの艦隊を破ったと?
ミサヤはこの目で見たのだ。無人のヨリスタルジェニカ艦隊を。それらの船を
「どういうこと」
通りを横切り、裏通りに身を隠した。表通りの坂道を、楽隊の響きが上がってくる。
ソラート神官団はどうなった?
シオネビュラを脱出したところで、どこに帰ればいい?
いや、事実ではない可能性もある。
そうじゃないか。
※
星獣奏の語歌。
汝が手を伸べ給え。
少女は親を失い、星獣を得た。星獣は少女の天使だった。天使は他の誰にも見えず、触れることもできなかった。里の老人は少女を不吉だと言った。別の者は遺産を取り上げようと企み、多くの者は少女に無関心であった。少女は自分の家に火を放ち、花咲く里を去った。
少女は街に出て、盗みを働いた。天使を振り向けば、笑っていた。
少女は盗みを働いた件で疑われ、嘘をついた。言い逃れをするために、他の人に濡れ衣を着せた。天使を振り向けば、笑っていた。
少女は春を
少女はある日、里の人々の全てが自分に冷たかったわけではなかったことを思い出した。
逃げるために、売春宿の元締めを殺した。
丘を越え、森を越え、深い川を渡り、里を目指す。
ようよう帰り着いたとき、花はなく、いつものように振り向けば、天使は笑っていなかった。