私はアイマ
文字数 4,747文字
よく教育されたコブレン市民は、外で騒動が起きている間は窓や戸口に近付かない。最後の断末魔が消え去ってから十分ほどしたら、沈黙するあらゆる窓の向こうで人影がちらつき始める。人が外に出てくるのは、それからさらに五分ほどしてからだ。
日輪連盟軍の一分隊が現場に駆けつけたとき、彼らはまず大声で市民を散らさなければならなかった。民衆が死体漁りをしたり、死体を蹴ったりしていたからだ。それでも星獣兵器を蹴飛ばす勇気のある者はいなかった。
散り散りになる民衆に紛れ、レミも岩塩道路の門前から離れた。
この目で見た限り、星獣兵器は破壊されていなかった。いずれ連盟の歌流民がやって来て、再起動させるだろう。
問題はそこじゃない。
問題は、第一に、三体の星獣兵器の歌を上塗りできる歌い手がいること。第二に、日中に堂堂と死体の山を築ける技量と胆力の持ち主がいること。第三に、その両者が行動を共にしている可能性が高いこと。最後に、それが何者なのか、自分たちには見当もつかないこと。
コブレン自警団の残党?
まさか。あり得ない!
「みんなどうかしてんのさ」
怒りまじりの呟きが頭上から降ってきた。小太りの中年女性が、葉を落とした庭木に梯子をかけ、星獣祭の飾りつけを始めていた。
「星獣祭はもうすぐだってのに、だぁれも準備しない。それじゃ間に合わない、間に合わないんだよ」
悪意なんだ。レミは思った。この世界には悪意がある。
そう思ったのは、雪が降ってきたからだ。
太陽が急速に沈んで早すぎる夜がきたあの日、市街は狂騒に陥り、コブレンを占拠する日輪連盟軍の将兵たちは
そう、悪意なんだ、あのとき晴れていたのは。天に秩序はない。それは失われた。星獣祭は来ないって、その前に世界は終わるって、そう知らしめるために晴れていたんだ。西から昇る太陽を見せるために。
被害妄想だと、レミはわかっていた。全く歩調を変えることなく曲がりくねった路地を縫い歩く。自分に問いかけた。悲観や被害妄想を心地よく思うほど私は疲れているの? 参っているの? まだ自分の仕事を終わらせていないのに?
否、否だ。使命がある。
やることさえあれば、まだ生きていられる。
※
レミは頭から粉雪を浴びながら小さな家に戻った。住宅というより小屋と言ったほうがいいような、
まず引き戸の前で、左右の靴底の雪を落とす音を四回ずつたてる。引き戸を細く開き、それから自分一人が通れるぶんだけ開き、中に滑り込んだ。
竃の火が照らす屋内に、二人の仲間がいた。ダガーを腰に帯び、出入り口の番をするジェスティ。隙間風が吹き込む板壁にもたれかかって目を閉じているフーケ一門の問題児、アスター。爪先がリズムを刻んでいる。
「アスター」
声をかけようとするジェスティを無視し、レミは大股で小屋を横切った。アスターのもとへと。
そして、その胸倉を掴んだ。
「聞け」
前後に揺さぶる。アスターは気怠げに目を開けた。
「乱暴だなあ。人がせっかく音楽を聴いてるのに」
音楽が鳴っていないのにどうやって音楽を聴いているのか知らないが、レミは無視して本題に入った。
「連盟軍を挑発した馬鹿がいる」
「いつもの?」
「いつもの辻斬りか、っていう意味なら違う。星獣兵器の移送部隊が皆殺しにされた。岩塩道路側の門に詰めていた兵士も全員だ」
それで、アスターも話を聞く気になったようだ。レミが手を離すと、アスターは竃の前に歩いていき、
「星獣は?」
「動きを止めていた」
「そんなことができる人は多くないはずです」ジェスティが口を挟んだ。「クララ姉さんが生きてたりして……」
それを聞き、レミの胸は痛んだ。もしあの冷酷なクララ、素晴らしい歌い手でもあった毒蛇クララが生きていたら、妹弟子のジェスティにこう言ってやっただろう。
『私はもうあんたの姉さんじゃないよ。あんたは一人前になったんだ』
こうも言う。
『目先の事象一つで根拠のない希望を抱くな』
レミとて、ミラとトビィとアズが生きているという希望を抱くことができたらどんなに心が救われることか。
結局、レミもアスターもジェスティには答えなかった。
「で、レミは誰かが挑発のためだけに死体の山を積み上げたって思ってるの?」
「まさか」
さりとて星獣兵器を奪うでも、破壊するでもなし。
目的がわからない。
誰かが、家の外で左右の靴を四回ずつ鳴らした。三人の目が戸口に集まった。引き戸が細く開き、この家の本来の持ち主が姿を見せる。
家主の少女は粉雪と共に入り込み、引き戸を閉ざした。
「悠長な毒殺だね」
アスターの声に震え上がり、少女は鍋の蓋を落とした。
「君は砒素しか扱ったことがないのかな?」
薄笑いを浮かべるアスターに、はいともいいえとも答えず凍りつく。
自分に都合のいいように、アスターは聖典を引用した。
「『甘くとも苦くとも、収穫は
火の前にいながら、少女は小刻みに震えている。その句が引用された意味がわからないのだ。
今は、まだ。
「そういえば、僕たちはまだ君の名前を聞いていなかったね」
「アイマ」少女は、この質問には難なく答えた。「私はアイマ」
「ふぅん、アイマちゃんね。アイマ、僕は君に青酸を渡すことができる」
「アスター、やめな」
やめなかった。
「青酸ってわかる? わかるよね。君は
薬屋
だもの」アスターは腿にベルトで縛りつけた小さな鞄から青い瓶を出して見せた。
「特定の植物の種子や害虫から採れる毒物で、君が憎む相手にかなりの苦痛を与えることができる」
「確実な死も」アイマの声は細く、しかも陰気だった。「ありがとう、でもいいです。私は自分の手でやり遂げたいの」
「君はこれから北ルナリア副市長の昼食に砒素を混ぜに行く」
アスターは瓶を鞄に戻した。立ち上がり、竃を迂回して、アイマの後ろに死のように寄り添った。
「そこで目にする星獣がらみの騒動を、細大漏らさず僕たちに報告してごらん。それが君たち一家の過去の所業について、コブレン自警団が不問に処す条件だ。だけど」
笑いながら、青酸の瓶を少女の手に押しつけた。
囁く声は笑っていなかった。
「君が北ルナリア副市長を殺すのは、僕たちが『やれ』と言ってからだ」
※
数分ののち、アイマは自分の不快な家からまろび出た。数日前までは、両親と弟の思い出が詰まった家だった。家族の気配だって残っていた。あの拷問者や暗殺者たちが押しかけてくるまでは。だが、そういうアイマの一家は毒殺者だったのだ。そのことはアイマ自身がよくわかっていた。だからこそ、心の整理のつけようがなかった。
新雪を踏んで走り、大通りでよろめきながら歩を緩めると、あとは市庁舎の使用人出入り口まで肩を落とし歩いた。涙が出ていたが、寒気で目が乾いたからだ。何も悲しくはない。不快なだけだ。
雪は激しくなり、アイマが市庁舎にたどり着いたとき、藍染めのマントのフードの色は純白に変わっていた。通用門に二人一組で立っている、見慣れた顔の衛兵に木彫りの通行証を見せた。いつもの通り、衛兵は不機嫌な様子だった。八つ当たりされる前に姿を消せとばかりに荒い手つきで門を開く。肩をすぼめ、アイマは本庁舎の裏口へ急いだ。
庁舎の外は静まり返っていたが、中はそうでもなかった。裏口の戸を開くなり、眼前の廊下を二人の役人が走り抜けていった。アイマは雪から解放されて息をつき、マントのフードを脱いで戸を閉めた。
厨房へと廊下を渡る。
一つの扉の前を通るとき、中で誰かが大声をあげるのを聞いた。
「死体の収容所すら決まらんとはどういうことだ!」
四角い中庭を挟んだ回廊に出る。兵士たちが小声で話していた。
「後発部隊はもう出たのか?」
「ああ」
兵士たちはアイマに気付くと話をやめた。アイマは
やがて庁舎の一番奥まったところ、土間に井戸がある厨房に到着した。厨房の高い天井には蒸気が渦巻いており、スープが温かく香っていた。
二人の給仕が興奮して囁き交わしていた。
「コブレン自警団の生き残りがやったのよ。他に誰がいるの?」
「シッ! そんなこと聞かれたら……」
アイマは聞いた。
目配せした二人の若い給仕は、厨房の入り口に現れたアイマにすぐに気がついた。だが、彼女たちにとってアイマは話を聞かれて困る相手ではなかった。栗色の髪の給仕は、露骨に嫌そうな顔をしてアイマから離れた。一人残った水色の髪の給仕は、厨房の中央に二列に並ぶ竃の前で、鋭い目つきでアイマに嫌味を言った。
「今日はずいぶんお早い到着ね。もうお腹ぺこぺこって感じ?」
「仕事は早いに越したことはありませんから」
嫌味の通じていないふりをすることが、アイマにできる精一杯の抵抗だった。
「じゃあさっさと汚い上着を脱ぎな、
言われる前に、アイマは冷たい無表情でマントを脱ぎ始めていた。それもまた抵抗だった。
やがて、今日の上級役人の昼食がアイマの前に少量ずつ並べられた。
何百年も昔から毒味者の席と定められた卓につき、アイマはそれを口に運ぶ。
胡麻とヒマワリの種が練り込まれた滋味豊かなパン。
カブと押し麦のスープ。
マスの煮付け。
ほうれん草のムース。
食後には、様子を見るための時間が十分置かれる。その間、アイマは厨房にいる十数人の厨房係や給仕の声に耳を傾けた。
雑談のほとんどがその場にいない他人についての話で、コブレン自警団の暗殺者たちが欲しがるような情報はなかった。
「さあ、配膳だ!」
十分経ち、給仕長が声をあげた。
コブレンの戦いまで、アイマ一家の仕事は毒味だけだった。十一月十七日の夜明けにコブレンが陥落して以来、一家はアイマを残して世を去り、仕事は給料据え置きのまま配膳と皿洗いの手伝いが加わった。でなければ、どうしてアスターが言うところの『悠長な毒殺』ができようか。
標的ジェレナク・トアンの食器は青地に白い花模様の一揃えで、わざわざ北ルナリアから持ち込まれた気に入りのものだった。
スープが盛りつけられたトアンの器をトレイに運ぶとき、アイマは器に右手をかざした。アイマの右手の親指と人差し指の爪の間には、魔法の白い粉がたっぷり詰まっているのだ。
満足のいく純度ではない。
量も多くない。
だが、この粉を器に落とし続ければ何が起きるかアイマは知っていた。トアンの肌が黄ばみ、薄茶色に変わり始めるのだ。手足に斑点ができ、そのことで、きっとトアンは不安になる。同時期に胃腸の働きが落ち、なんとなく具合が悪いと感じる時間が長くなる。
『悪質な風邪だ』と彼の侍医はきっと言う。だがトアンには手足にできる斑点の理由がわからない。ときおり胸の動悸が激しくなる理由がわからない。加齢か? そうだ、加齢のせいだ! 彼は自分に言い聞かす。
侍医は彼に心臓病の薬を出すかもしれない。
北ルナリアに戻って休養するよう勧めるかもしれない。従うか? 従わないだろう。
アイマはスープ皿をトレイに置いた。
そう。
トアンは死ぬ。