拘束令
文字数 2,697文字
連絡が正位神官将ヤン・メリクルのもとに届くと、ヤンは唇を不敵な感じに吊り上げた。だがそれは単なる癖であり、実際のところ、彼は笑ってなどいなかった。ヤンはその場で補佐官に命令した。
「ソラート使節ミサヤ・クサナギ二位神官将補を拘束しろ」
時が来たのだ。
ミサヤはシオネビュラ神官団に用意された邸宅で、一人の時を過ごしていた。茶を入れ、ソファに深く身を沈めて、故郷ソラートの静寂を聞くことはできぬかと一人寂しく思っていた。もとより二年か三年は帰らぬつもりで出征した。それが勤めだからだ。ただ、三年帰らぬとなれば、夫に預けてきた息子のタヤは五歳になる。情操教育の面で最も重要な時期に、タヤは母親不在で育つのだ。雇った乳母が信の置ける人物なのが救いだ。愛情を注いでくれるだろう。そんなことを考えるともなしに考えるうちに、ミサヤは気がついてしまった。自分自身が息子に会いたいのだと。
扉を開けるなり、
「クサナギ二位神官将補殿」
ドアノブが手から離れた。客によって外側へと大きく開かれたので、手からもぎ取られる形となったのだ。
「このような時間に申し訳ございません。当神官団にて
壮年の正位神官将補は一方的に言い放ち、部下に扉を閉めさせた。ミサヤの後ろでその音が響いた。
「レリハ正位神官将補殿、何事です」
両の二の腕を、二人の兵士が取った。ミサヤは振りほどくこともできたが、正位神官将補が顔を寄せるので、踏ん張って身構えるに留めた。
「どうか冷静にお聞きください。ソラート神官団の消息が絶えたのです」
硬直するミサヤに、彼は一言付け加えた。
「つまり何が起きたのか、あなたにはお分りいただけるはずです」
抵抗して何になろう。ミサヤは鞍付きの星獣に乗せられた。その背に揺られる彼女は、別の現実、よく晴れたタルジェン島、誰もいない村、食事の痕跡さえ残されたままの『灰の砂丘』神殿の沈黙の光景を幻視していた。
ミサヤの侍従をどうしたかと、正位神官将補が部下に尋ねていた。わざとミサヤに聞こえるように話しているようだった。別の者たちが既に保護したと、神官兵が答えた。
「ただ……」
会話の他には、騎兵を乗せた軍用馬たちの蹄の音、星獣を操る御者の歌と、御者が左手で振る鈴の音が耳に聞こえた。
「ただ?」
「歌流民の少女がいません」
頭内から幻視が払拭された。
ミサヤは耳を疑う。ゾレアが?
「いないだと?」
「はい。担当の者が向かった時点では窓の向こうに姿が見えていたのですが、応答がなく、中に上がった時点ではどこにもいなかったと」
「どうなっている。誰が探しているんだ?」
既に一分隊が手分けしている、という返事を聞いたときだった。
星獣が
後続の騎兵がぶつかりそうになり、うわっ、と声を上げた。歌い手が歌を止めた。地上で手綱を握る彼女は、訝しげに首をかしげ、眉根を寄せながら短く歌いかけた。
「どうした、ルミ」
歩兵が尋ねた。歌い手はソプラノで短い節を歌ったが、星獣は頑として動かない。
「駄目だ、いうこと聞かないや。急に動かなくなっちゃった」
「なんで」
「わからないよ……待って」急に鋭い動作で辺りを見回してから、「……他に誰か歌ってる!」
すると、星獣が動き出した。面食らうミサヤの前で、騎兵たちは星獣を止めようとしたが、体の大きな星獣を恐れ、馬は進路をあけた。
星獣は、
御者が必死に歌い聞かせようとしていた。星獣は前進を続ける。つまり、どこかで星獣を操る者の歌の力のほうが、訓練された御者の歌より強いのだ。
そんな芸当が可能な者は限られている。
誰かが答えを叫んだ。
「歌流民だ!」
ならば、並みの御者では抵抗できまい。
嫌な予感を得たミサヤは、前屈みになって絹のような
待ってましたとばかりに、星獣が
歌声の主に近付いているのだ。
滅茶苦茶に走るうちに、星獣の光は消え、体は闇に紛れた。急な減速と停止。尻が鞍からずり落ちる。奇妙な二本足の星獣から滑り落ち、痺れた両腕で鬣からぶら下がる形となった。
神官たちが追ってくる。
だが、星獣の輝きを見失い、惑っている様子を感じ取れた。
両腕から力が抜けて、地面に崩れ落ちた。すると軽い足音が寄ってきて、ミサヤの手を取った。その細い手の感触で、少女だとわかった。
少女は、「立って」とも、何も言わなかった。
歌うときにしか声を出さないのだから。
ただ、ミサヤを導いた。闇の中を、縦横に駆けていく感じがした。しかし次第に冷静になってくれば、彼女にもまた土地勘などないことが思い出された。
「ゾレア」
ミサヤは動揺し続けていたが、可能な限り優しく呼びかけた。
「ありがとう。無事か?」
どこかの通りに出た。ガス灯がゾレアの
通りを横切って、二人は向かいの小道に駆け込んだ。
「……だが、何故助けたんだ?」
暗闇で立ち止まった。もう神官たちの声はしない。二人は肩で息をしていた。ゾレアが手をほどく。すぐにミサヤの右手が取られた。
ゾレアはミサヤの掌に指で字を書いた。
『お姉さんと同じだよ』
ミサヤは少なからず驚いた。ゾレアに、というよりも、歌流民の歌い手という存在に、これほど明確に意志を伝えられたのは初めてだったのだ。
「同じって……」
闇の中、くすぐったい感触と共に、ゾレアは付け加えた。
『何が起きているのか知りたいの』