悪意
文字数 2,522文字
小さく切った銅板を暖炉の火で
銅板が真っ赤になると、ハルジェニクは立ち上がり、グラスに銅板を落とした。
たちまちグラスから刺すような臭気が立ち上り、ハルジェニクは仰け反りながら左手で鼻を覆った。
「吸うな!」
居間にはハルジェニクの他に、プリスとエルーシヤもいた。
「出ろ、お前ら!」
かくて家主のプリスと歌流民の少女――プリスだってハルジェニクに言わせれば少女と大差ない――は、熱いトングを振り回すハルジェニクによって寒い廊下に追い出された。
「何なの?」
ハルジェニクは左肘の内側で口と鼻を覆い、目を丸くして立ち尽くすプリスとエルーシヤの鼻先で戸をバタンと閉めると、刺激臭の中を突っ切って居間の奥の窓に飛びついた。その頃には両眼から涙が溢れていた。
トングを絨毯に叩きつけ、
プリスの集合住宅は九百年前に建てられた五階建てで、文明退化の深度が浅い時代の建造物にしては低い部類だった。だが、昇降機が破壊された今では燃料の上げ下げにも苦労する。
窓辺で見ていると、グラスは薪を積んだ
ハルジェニクは窓の下に座り、冷えていく部屋の中で一から百までを五回数えた。空気が十分に入れ替わったと判断すると、窓を閉め、プリスたちを居間に入れた。嗅覚はまだ回復していなかった。
座ろうともせずそわそわと室内を見回すプリスに、赤い目をしたハルジェニクは、顎で酒瓶を指した。
「
「何それ。毒?」
ハルジェニクは時折プリスに対して猛烈に苛立つことがある。母親と二人の優秀な姉に過保護に育てられ、
家主のようにどっかりとソファに体を投げ出し、ハルジェニクは指で鼻の下をこすった。
「ああ。味見したとき舌がやけにピリピリしたから、そうじゃないかと思ったさ」
この酒のことでハルジェニクに相談を持ちかけたのはヴァンだった。小隊の兵士がどこからか独自に酒を仕入れてくるのだという。
『都会で
都会的かどうかはともかく、確かにとっても刺激的だ。この酒を飲んで楽しい気持ちになれる時間は短い。早ければ一時間弱で二日酔いの症状が出始め、頭痛、嘔吐、目眩、混乱を経て前後不覚に眠り込む。少し寝て具合が良くなっても、一日から一日半が経てば決まって再び体調が悪化する。
『こんな刺激の強い酒を好んで飲むなんて、都会の人は変わってるなあ』
犠牲者は地方から来た徴募兵やとにかく金のない新兵ばかりで、士官は一人もいなかった。この酒で、ヴァンの知る限り一ヶ月足らずで少なくとも二人が死亡、五人か六人が失明で除隊した。
「木精」ハルジェニクは重ねて言った。「俺でもわかるようなことを陸軍のお偉方がわかってないわけがない」
「じゃあどうして対策されないの? 私はこのお酒のこと今知ったよ」
「犠牲者をよく調べたらわかるかもな。解放軍に加わった士官の元部下がどれくらいの割合を占めるか。マグダリス・ヨリス、リャン・ミルト、アセル・ロアング……」
プリスはアイオラとアウィンのことを思い出した。貴族街の略奪と強引に買い取られた住宅地を巡る騒動に便乗し、略奪品を略奪した解放軍の士官――。
「蒸留所を手に入れたのは誰だ?」
「知らないよ」プリスは露骨に不機嫌になった。「解放軍の仕業かな?」
「連中は陸軍を取り戻す気でいる。兵卒にそんなことしないだろうさ」
「だったら今兵士を抱えてる司令部はなおさらそんなことしないでしょ」
ハルジェニクは腕をソファの背もたれに投げ出した。
「はいはい、軽率な発言でしたっと」
プリスは、エルーシヤの目が暖炉の上の酒瓶に注がれていることに気がついた。
「気をつけろ。素手で液体に触るなよ」
歩み寄るプリスに声をかけると、プリスは腰を屈めて酒瓶をしげしげ眺めてから振り向いた。
「この木精っていうのは蒸留所で作られるものなの?」
「木材が木炭になる過程の蒸気を蒸留してその液をもう一回蒸留してできる」
「え、何? もう一回言って」
「それなりの蒸留設備が必要ってこった」もう一回言いはしないが補足はした。「その蒸留液を飲めばヴァンが言う通りの毒性を示す。一日経ってまた具合が悪くなるのは、体内で新しい毒を生成するからだ。ヴァンには兵士に配給品以外飲ませるなって言うしかないな」
「詳しいんだ」
「ある種の顔料は毒にもなるからな。お前も興味を持てば詳しくなるぞ」
「やだ」
プリスの後ろの壁際には、イーゼルと描きかけの抽象画があった。
「詳しくなったらハルジェニクに絵の解説されるもん」
「うるさい。それで?」
ハルジェニクは昨夜、光源による色の見え方の違いについて講釈をかましたばかりだった。
「お前まさか深入りする気じゃないだろうな?」
「私の職場で起きてるんだよ? この問題」
「やめとけよ」
昨夜より遥かに真剣に、二人は睨みあった。
「……解放軍の仕業じゃないんなら、そのほうが怖いよ」
プリスは言って、ハルジェニクに背を向けた。彼女は居間を出た。自室に入っていく音がした。エルーシヤはソファに浅く腰かけて、プリスが戻ってくるのを待った。
だが、自室から出たプリスの気配は廊下を曲がって玄関に向かった。
「どこ行くつもりだよ!」
居間の扉を開け、照明のない暗い廊下に呼びかけると、ほのかに明るい角の向こうからプリスが不機嫌に答えた。
「買い出し!」