朝方の星
文字数 2,346文字
リージェスが礼拝所を覗いたとき、テスは会衆席の最前列のベンチで背中を丸めていた。あまりに深くうなだれているので、見つけることもできないほどだった。
見つけた後は、声をかけることができなかった。
※
リージェス・アークライト少尉が入って来た。身廊を渡って会衆席の中ほどまで来たが、そこで立ち尽くし、ほどなくして引き返していった。テスはリージェスの視線から解放されるや乾いた目蓋を開けた。聖所の扉が閉ざされ、空気の流れが絶えた。乳香の匂いが改めて鼻腔を訪れた。
それで、要はミスリルを選ぶか、アズとトビィを選ぶかだ。
『お前の二人の兄弟子のことで話がある』
話って何だ。
テスはそれを知らずにいられない一方で、全然知りたくもなかった。
アズを殴ったときのことを覚えている。アズは決してテスを傷つけようとしなかった。いつだって。だがテスはアズを憎んだ。拳で受けた鈍い打撃。アズの体温。息。声。全て覚えている。
まだ謝っていないことを思い出し、慌てて立ち上がる。
「アズ?」
呼んでみた。
振り返りながら腰を浮かせた。
「アズ?」
何か行き違いが起きていないか。
「トビアス?」
兄弟のうちのどちらかが、そこの扉の陰から様子を窺ってはいないか。
だが、全ての扉が閉じていた。
聖所の出入り口。
右の壁の戸。
僅かに見える内陣の奥の
誰かに見られている。
「トビアス?」
床に置いた燭台を持ち上げてみる。
壁の銅版画にかざしてみる。
宗教画としてありきたりの絵。預言の乙女。火刑に処されるキシャ。ありきたりの古い苦痛。この乙女の目だろうか、視線の
「アズ?」
今にも闇の中から形をとって現れそうな気がする。どこかの扉を開けて会衆席に入ってくるかもしれない。そして、優しげに聞く。どうしたんだ? と。
「トビアス」
あるいはこう。あれー? 鴨じゃん。呼んだ?
だが来ない。
テスは一人だった。
知らない場所で、一人きりだった。
それは当たり前のことで、ゆえに耐えられない。当たり前だということが。
「アズ!」
預言者は八百年前に死んだ。
「トビアス!」
自警団の仲間たちは三人を残して死んだ。
「アズ!!」
その内の一人は自分だ。
あとの二人が、アズとトビィということがあり得るだろうか?
ある。あり得る。だって、団長は二人のことで話があると言った。二人が死んだとは言わなかった。
ミスリルならどう助言するだろう? ミスリルはいない。
知らない所で一人なのだから。
それで。
ミスリルを選ぶか、アズとトビィを選ぶかだ。
※
礼拝所の上のほうで窓が明るくなってきた。厚い色ガラスの向こうで夜が明けつつあった。テスは厚手のマントをぴったり体に巻きつけて、最前列のベンチで横になっていた。
床では蝋燭が燃え尽きていた。燭台の横にテスは左足を垂らす。
朝が来た。シルヴェリアに答えなければならない。だが、今テスの頭にある一念は、耳が冷たいということだけだった。
体は芯まで冷えていた。とりあえず、身を起こし、足を床に下ろすと、ほのかに青い薄明かりの中で髪に指を入れた。
が、答えはおろか、考える気も起きなかった。
去ることも許す。シルヴェリアは約束した。だが、優柔不断な答えをすればヨリスが斬る。
テスは嫌々ながら立ち上がった。ひとまずはここを出よう。教会の扉を押し開くと、切るような風が吹き付けた。その冷たさで多少頭がはっきりした。もう頭上に星はなかった。優しい夜明けの空に、天球儀の白い光が滲んでいた。
ミスリルに会える見込みはあるのか。
足を踏み出せば、風は最初に思ったほど強くなかった。背後で扉が閉まり、もう一度だけ風が起きた。
ミスリルに会えるのか。このまま旧ミナルタにいても、ミスリルの足取りは掴めない。テスは教会のポーチで立ち尽くす。俺は不誠実じゃないか。そう思えた。
奇跡のような幸運で『月』の最初の運び手と出会えたが、追跡対象のミスリルとアエリエの手がかりは何ひとつ掴んでいない。その上団長は、
と、伏せた目の前を、何かがふわふわと舞い降りてきた。風に流されていくそれを、目で追い、左手で捕まえた。
羽毛だ。
海に目を向ければ、数々の屋根の向こうに横たわる沖は光が敷き詰められ、水平線に
そのきらめきが、テスの心の中で、アズの声として結実した。
『泣きやんだら、もう一度やってみよう』
テスは目線を下げ、昼星を見つめる。昼星は見つめ返す。どちらの道を選んでも、昼星はついてくる。
このまま都を目指すこともできる。シルヴェリアへの協力を拒むなら、わざわざ断りを入れに戻る必要もあるまい。
眼前には一本の道があった。
右に進めば、シルヴェリアの居場所へ戻ることになる。
左に進めば、ミナルタ旧市街を出て都に至る街道に出る。
「昼星」
テスは、愛する友の翼の下に冷えた左手を入れた。毛布のように温かかった。顔と顔を付き合わせ、ゆっくり瞬きをする。昼星もまた、瞬膜を一度閉じた。目の周りの茶色い羽毛がそよいでいた。
テスは右腕を一度下げ、振り上げた。飛べ! 昼星が舞い上がる。気流に乗って左回りに旋回し、高度を上げていく。
テスもまた走り出した。
己の決めたほうへ。