祈る気もなくなる
文字数 2,734文字
日輪連盟が欲しがる、南西領におけるプロの暗殺者の一大市場。コブレンには殺しに付随する様々な仕事の請負業者も存在する。
アズは貧しい区画へと足を運んだ。家々はどれも城壁の内側にこびりついた泥のようであった。複雑に入り組んだ小道を縫い歩き、板材で建てられたあばら屋へと迷わずたどり着くと、ノックもせず、板戸を外して上がり込んだ。そのとき大きな音がして、目を覚ました家人の起き上がる音が闇の中から聞こえてきた。
戸口で待っていると、白い髪の老婆がいざり出てきた。顔の皮はたるみ、その顔に満面の笑みを湛え、左手に天籃石を、右手に盃を持っていた。
老婆は無言で盃を差し出した。アズもまた、無言のうちに腰の皮袋をとる。中の葡萄酒を注ぎ込むと、老婆は一息に
満足げな吐息。
「生き返るねえ」
しゃがれた声だった。
「仕事を依頼したいのですが」
「清掃か? 解体か?」
「両方です」
「何体バラせばいい?」
「現時点で八人」
「納期は」
「夜明けまで」
老婆は鼻で笑った。
「兄さん、あんた、そりゃ無理だ」
「夜明けまでに死体の隠匿と、表通りの清掃をお願いしたいのです。屋内の現場の清掃と死体の処理は次の夜以降で構いません。もちろん清掃作業中は自警団が警護します」
「一家総出になるね」
もう一度差し出された盃を、葡萄酒で満たしてやった。
「もちろん、作業に携わった方全員分の報酬をお支払いします」
「兄さん、あんたは――」
老婆の口の端から一筋、葡萄酒が垂れた。それを指で
「――あんたは金さえ払えば嫌がらずにやってくれると思ってるね。八体と。結構な量だよ。
あんたは自分を立派な殺し屋だと思ってるようだがね、ねえ、一度でいいからアタシらのやる解体現場をご覧なさい。あんたがアタシらに何を頼んでいるかを知るがいい。二度とあんたの神に祈ろうっちゅう気持ちも消え失せるさ」
老婆が乾いた声で笑う頃、同じく闇を
その闇に、天籃石の白色光が浮かび出た。
「何も
女の声がした。自警団の黒いマントに身を包んだ、水色の髪の女だった。歳はエーデリアと同じ程度。三十歳で特殊部門を卒業し、渉外部門に移ったクラリス・ヘスだった。
仲間内でクララと呼ばれているこの女のことはよく知っている。エーデリアの立場が今より低かったときには、彼女と一触即発の状況となったことも一度や二度ではない。
「おや、一緒にいるのはアリーかい? 大きくなったねえ」
「何の用? 時間を無駄にさせる気なら殺すよ」
クララはせせら笑い、肩を竦めた。
「妹ってのはかわいいねぇ。いいもんだ。私の妹も年が明けたら特殊部門に配属になるんだ。マジェスティアっていう子でね。その子をたっぷり可愛がってあげるように言っておこう」
左手で天籃石を持ちながら、右手は片手剣の柄を握っていた。
「エーデリア、目を曇らせてる暇はないよ」
「何のことかしらね?」
笑顔のまま、クララは釘を刺した。
「お前たちが元締めとしての存在意義を果たさないなら、潰す」
迫る太陽の気配。東から闇が薄れ、子供から老人までの一家が汚れた姿でとある路地から出てきた。一家は貧者たちの区画へと歩み去っていった。そのあとの、綺麗に清掃された舗道を踏んで、アズが自警団本部に帰っていく。
燃えあがる雲が東の稜線より押し寄せる頃、アズは帰り着いた。出迎えてくれたのは、五歳年長のケイズだった。彼の相棒は、車輪を付けた椅子に乗り、膝に毛布をかけていた。
「テセル兄さん」
思わず声をかけ、正門から南棟の階段の前まで歩いていく。微風が団旗を揺らしていた。鉱山街に、間も無く長い冬が来る。
「おう」と、車椅子を押すケイズが、角ばった顔に笑みを浮かべた。「ちょっと散歩させてたんだ。テセルがお前を探してたからな」
テセルに目を向ければ、人格が荒廃して久しいことがわかる。目はいつでも眠そうで、濁っており、かつての穏やかな性格の通り、口許は笑っている。花を見、鳥を見、草花を見ては、「あ、あ」と声を出し、笑う。時折手を上げ、既に失われた指を使ってドングリを拾おうとする。
彼の姿を見るのにも、じきに慣れるだろうとかつては思っていた。それは間違いだった。胸に受ける痛みは、諦念によって和らぐことはあれど、消えることはなかった。
テセルはアズを見て破顔した。
「あ、あ」口の中を大火傷させられたせいか、あれから五年経っても簡単な単語しか喋れない。「ア、ズ」
「ただ今戻りました、テセル兄さん」
「ア、ズ」
テセルの手首の先には、丸みを帯びた掌だけがある。十本の指は、拷問によって失われていた。
眼前で片膝をつくアズの頭に、テセルはその掌を置いて撫でた。こういうことをするとき、彼の頭の中では、アズはまだ小さな子供なのだ。
「また、あ、う、いないから。また。家出」
アズはそっと微笑んだ。
「いいえ。もう家出はしません」
テセルがこうなったのは、自白剤の過剰投与のせいだった。あの年は、コブレンでは異常な量の薬物が流通していた。自警団に突き止められたのは、それらはグロリアナを通過してリジェクないし北ルナリアから流入してきたものであり、その方面では何らかの理由で違法薬物の値崩れが起きていることだけだった。
その調査の
テセルに直接この仕打ちをした組織の構成員は、コブレン自警団によって全員が血祭りにあげられた。自警団の怒りの激しさに、元締めのタターリスさえそれを黙認するしかなかった。
北ルナリアで、リジェクで、グロリアナで、五年前に何が起きていたのか。この兄は、一度はそれを知ったかもしれない。だが彼の頭脳は破壊された。
それでも彼は、変わらず優しいままだった。
朝焼けの中、アズは片膝をついたまま、敬意を込めて、テセルの指のない冷えた掌を両手で包み込んだ。