月光と炎の中で
文字数 2,412文字
都の心臓部は蜘蛛の巣状に張り巡らされた運河と水堀によって守られている。やすやすと奪われはしまい。ただ一つ、北の岩塩道路が喉に突きつけられたダガーのような懸念事項となっていた。
岩塩道路を封鎖すべきか否かで、連盟の中でも意見が割れていた。封鎖すれば、コブレン経由で物資や星獣兵器が補給されなくなる(コブレンで星獣兵器が全滅したという知らせを頑なに信じない重役もいた)。封鎖しなければ、トレブ地方の三都市、北トレブレン・中トレブレン・南トレブレンで防御に徹していた月環同盟軍が攻勢に転じてコブレンを奪取し、都を背後から急襲する恐れがある。
総督府の執務室で、エーリカは窓辺に立ち、遠くに燃える炎と影のように横たわる城壁を見下ろしていた。
「言語生命体は、神への物語に憧れていました」
部屋の中央に突っ立つパンジェニー・ロクシは、エーリカの背中に聞き返した。
「はい……?」
「愛をもって自立を見守る神ではなく、支配と命令によって君臨する神観は、未熟な精神の持ち主にはさぞや甘美なものでしょう。『支配する神』への憧れが、戦闘を統治の手段とする地球人の支配モデルの寿命を伸ばしたと言っても過言ではありませんわ」
エーリカは振り向き、パンジェニーに尋ねた。
「何故、地球人はこの統治モデルを手放したのでしょうね。ロクシ少尉はどう思われます?」
「時が経つにつれ、言語生命体が
「そうであるならば、
「違う、とお考えですか?」
「歴史の示すところによれば、地球人は何らかの理由で言語生命体への態度を軟化させたのです。それによって我らの祖先は『支配する神』に幻滅し、地球人を神の座から撃ち落とした」
エーリカはもう一度窓の外を見た。燦然と輝く月、欠けることのない偽りの月を。パンジェニーも見上げた。
あれは今、言語生命体の選び取る道を見守っている。それとも、監視しているのか?
扉がノックされた。
「ハーティ大尉です、エーリカ様」
「入りなさい」
シャンデリアの輝く部屋にララセルが入ってきた。銀髪もマントも風で乱れ、強風に当たった頬は真っ赤になっていた。手袋をはめた手には封書。
「ご命令通り、現時点で通行可能な道路について報告を取りまとめました」
「ありがとう」封書を受け取り、「私はいつでも月環同盟軍との交渉につく準備ができていると、レグロ・ヒューム二位神官将殿にお伝えなさい」
「はっ」
このところ一睡もしていないらしく、ララセルは目の下に
この第二公女は、本当に誰とでも交渉する気なのだ。
※
木造の家という家が燃え上がり、その地区からあらゆる軍勢を排除した。火の粉が夜空に舞い上がる。負傷して取り残された兵士が、熱気の中、残っている酸素を求めて道の真ん中を這いずっていた。彼を救援にくる者はいなかった。
城壁は、金獅子門に続いて騎士王門が陥落していた。
「後退せよ!」
強攻大隊の、ヨリスに代わる現指揮官は、受け取った命令書に目を通して大隊本部の伝令兵たちに告げ伝えた。
「強攻大隊はこれより都中心地の防衛に加わる。通行可能な橋へと隊を分け、中隊単位で議事堂前広場に集合せよ!」
隊を分けなければならないのは、大隊規模で通行できる道路がもはや残されていないからだった。焼け出された市民が埋め尽くす道路、都解放軍が封鎖した道路、バリケードが築かれた道路、どこに潜むかわからないゼフェルの後継軍。二つの門を突破した月環同盟軍は、火災が起きている地区を避けて東西の主要道路から日輪連盟軍の部隊を各個撃破する動きを見せていた。
各中隊へと伝令を放った強攻大隊指揮部隊、その背後を都解放軍が襲った。
強攻大隊の内通者、ヴァンはというと、伝令兵が来る前から指揮部隊の命令を知っていた。強攻大隊を後退させるよう画策したのは都解放軍だからだ。
ヴァンの役目は、強攻大隊の戦力を少しでも長く分散させ、集合を遅らせること。この二十歳の新任少尉は、指揮する小隊をわざと中隊からはぐれさせ、火の手が迫りくる街区に留まっていた。おかげで小隊は散り散り。ヴァンを守っていた兵士たちも火の手を避けて道をわかれ、ヴァンは一人きりになっていた。
彼は自身の運命を決める行動をしなければならなかった。このまま都解放軍に合流するはずだった。
夜空は火災を映して赤く染まっていた。雪はヴァンへと降りかかる前に蒸発して消えた。熱気が風に煽られてやってくる。息苦しい。早く通行可能な橋に辿り着かなければ、ヴァンも危なかった。
急がなくては。
運河沿いの道を走り出したそのとき、爪先が重いものにぶつかって、ヴァンは熱い石畳に転倒した。
膝あてが石畳にぶつかって音を立て、全身に衝撃を受ける。顎を擦りむいた。
振り向いた。人が倒れていた。それに躓いたのだ。
手をついて起き上がりながら、ヴァンはその人を見た。倒れ伏した体を中心に、血が流れていた。長い黒髪が広がっている。戦闘に巻き込まれた市民か、ゼフェルの後継の一員だろう。雰囲気からして少女だ。
まだ息があるかもしれない。
両膝で向きを変え、腕に少女を抱き上げたヴァンは、その青白い死に顔を見て叫んだ。
「エルーシヤ!」
エルーシヤは答えなかった。
笑っていた。
だが、息をしていなかった。
「エルーシヤ!!」
熱い空気を吸い込んで、叫びと共に吐き出す。ヴァンは消え去って久しい歌を心の中に聞いた。
『生きて死ぬ意味のために……』
「何をしている!」
いつの間に迫っていたのか、強攻大隊の中隊長がヴァンの首根っこを掴んだ。
「立て、早くしろ!」
引っ張られるままに立ち上がりながら、ヴァンの頭にはあの日の歌がまだ響いていた。
『勇気と善意を私にください』