不正の後味
文字数 3,403文字
医務室に向かうテスは、一つの思いに囚われていた。
あんなのは不正だ。事故ではなく、わざと怪我をさせたのだから。ずるだ。インチキだ。いくらミスリルとアズが殺し合うのを止めたかったとしても、自分の立場に置かれたのがアズだったら、アズならあんな卑怯な真似はしなかったはずだ。
廊下の先に、静まり返った広い訓練場と、医務室の扉が見えた。医務室の扉には菱形の窓が
後ろめたい気持ちと裏腹に、足早になっていく。ついには駆け出した。
「アズ」
扉を押し開き、眩しさに目を細めた。アズは起きていた。素肌の上にシャツを着て、毛布を羽織り、ベッドに腰掛けて、床に足を下ろしている。背中を前のめりに傾けているのは、鳩尾をかばっているからだ。まだ相当痛むはずだ。
とりあえず後ろ手に戸を閉めたものの、言葉が出てこない。アズは顔を上げているが、その顔をまっすぐ見返すこともできなかった。
アズのほうから声をかけてきた。
「お前で決まったのか?」
静かな声だった。
「……ああ」
「同行者は?」
答えながら、アズが使うベッドに歩み寄った。
「
近くの椅子の背もたれに指をかけ、引き寄せた。座ると同時にアズの口から微かな笑いが漏れた。
「お前らしいな。団長はいいと言ったのか?」
「ああ。ミスリルも、まさか追っ手が一人とは思わない。このほうが都合がいい」
言い終えてアズの顔を見た。アズの眼差しを受けたとき、安堵と羞恥が同時に胸に沸き起こった。優しい視線だったからだ。
「アズ」咄嗟に逃げ出したくなるのを堪えた。「怪我は……」
うまく言葉が出てこない。
「俺なら大丈夫だ。二、三日安静にしてればよくなる」
それでも黙っているテスに、「よくあることだ」と付け加えた。
「咄嗟の力加減が難しいのはわかってる。それに、本気で来いと言ったのは俺だ。罪悪感を抱く必要はない」
違う! テスは心の中で叫ぶ。あのとき俺はアズを憎んでた。わざと怪我をさせたんだ。
「俺は、お前に本気で勝ちにきて欲しいとずっと思ってた」
穏やかな口調でアズは続けた。
「訓練のとき、お前が俺を相手に手を抜いてると思ったことはない。でもどこか気持ちで負けてると感じていた。それが歯痒かったんだ。でも今日、お前は大事なときに、本気で勝ちを取りに来たな」
だが、その優しさはテスを一層苦しめただけだった。
取られそうな剣を手放して奇襲的に攻撃を仕掛ける、それ自体には何の問題もない。だがどうして、アズがテスを傷つけないようわざと隙を作る、その瞬間を狙って全力で殴ったなどと言えるだろう。
あれは、本気で勝ちを取りにいったのではない。ただの不正だった。ミスリルとアエリエのもとに行くのは自分でなければいけない。そのエゴで、この性格の純粋な兄の思いを、人柄の高潔な兄の願いを、踏みにじってしまった。
「テス、お前は休まなくていいのか? ひどい顔色だ」
「大丈夫。すぐに準備する。夜明けにここを出ていくから」
「そうか。黙って行ったらトビィも寂しがる。起こしてでもいいから、一言言ってやって欲しい」
「トビィには会えない」
反射的に答えた。語気の強さに、テスは自分でも驚いた。
「どうして?」
「俺はアズを傷つけた」
アズは実に意外そうに、「そんなことでトビィは怒らない」
テスが口を開くと、言葉ではなく涙が迸った。
「……テス?」
鳩尾をかばいながら、アズがゆっくり立ち上がった。普通の人なら数日は寝たきりになる怪我のはずだ。
「兄さん」
アズが、左手でテスの二の腕に触れた。
「嬉しいな。今でも兄と思ってくれるのか?」
歯を食いしばって頷くテスに、アズはなおも気遣って言葉をかけた。
「行くがいい。でも、どうしても行き詰まったり、ミスリルが見つからなかったら、恥ずかしがらずにいつでも帰ってこい」
涙を
その
「アズ! 怪我をしたって本当――」
騒々しい双子の兄は、医務室に飛び込むなり絶句した。アズは体を強張らせた。遅かった。
「――何、それ」
囁くトビィの目は、アズの肌、北ルナリアで星獣の攻撃を受けて変色した黒い肌に釘付けになっていた。
変色はアズの体を侵食し、既に腹一面を覆って胸にまで広がっていた。
※
北ルナリアで起きたことを、アズはトビィに打ち明けざるを得なかった。
「あのとき怪我してるのは気付いてたよ。だけどどうして黙ってたの?」
服を羽織るアズと同じベッドに並んで腰掛け、トビィは尋ねた。アズは黙り込んでいる。
「言えなかったのはわかるよ。でも、一人でずっと抱え込んでたなんて」
「いや。武術師範たちと運営幹部は全員知ってる。あと、医術部門と」
そう、とトビィは頷いた。
「だから運営会議にアズだけ呼ばれたんだね。それをどうにかする手がかりがパンジェニーの話に隠されているかもしれないわけだから」
「ああ」
車輪の軋む音が、廊下から聞こえてきた。アズは顔を上げた。夜明けが近いのだろう。それで、テセルが起き出したのだ。車椅子を押しているのは相棒のケイズだろうが、ここに来たということは、アズが怪我をしたと誰かから聞いたのだろう。
「入ってもいいか?」
ケイズの、明るいが控えめな声が戸の向こうから問いかけてきた。トビィが立ち上がり、廊下の暗がりへと戸を開ける。
「いいよ」
アズが見ている前で、トビィは兄弟子が乗った車椅子が室内に入るのを手伝った。テセルは具合がいいようで、曖昧な笑みを浮かべたまま、たどたどしい口調でトビィに話しかけていた。声が小さいので何を言っているかはわからないが、トビィはアズを振り向くと、何かに気付いた顔をした。
衣服をかき合わせるような仕草をトビィがした。アズは、自分が服を羽織っただけで、前をとじ合わせていなかったことに気がついた。ケイズが
「おい、その腹どうした?」
鋭い声が刺さる。「これは」と言いかけたアズの声に、テセルの呻きがかぶさった。アズとトビィ、それにケイズも、車椅子の上のテセルに注目した。
悪夢を見るように、テセルは苦悶の表情を浮かべていた。濁った目はアズに向けられていた。破壊された頭脳が、弟弟子の異変の意味を知っているようであった。
全ての指が切り落とされた両手を、まっすぐ前に突き出す。無理に立ち上がろうとするので、ケイズが慌てて後ろから両肩を掴んだ。
直後、テセルが咆哮した。
「兄さん」
アズの呼びかけも聞こえぬようだ。
何かを訴えているようだが、言葉は聞き取れない。
声から伝わる感情は、悲しみではない。恐怖でもない。
怒っている。
人格を破壊されて以来、温厚で優しかった兄弟子が初めて見せた強い感情。
それが、筋肉が萎えているにも関わらず、車椅子から跳ね上がるほどの強烈な怒りだった。
「駄目です」
ごく冷静に、トビィがテセルの体を受け止めた。歩けぬ足でアズのもとに来ようとするテセルに、トビィですら前に引きずられかけた。ケイズと二人掛かりで車椅子に運ばれながら、
「アズ!!」
テセルは叫んだ。アズは立ち上がろうとしたが、鳩尾に鋭い痛みが走り、尻をわずかにベッドから浮かすのが限界だった。トビィが見咎める。
「アズ、動かないで」
「貴様ら!」
六年間ずっと呂律の回らなかったテセルが、明瞭に言葉を発した。
「どうしてアズに手を出した!!」
目玉が飛び出しそうなほど大きく見開かれた目。そこから放たれる視線は、しっかりとアズの変色した腹部と胸部に定められていた。
「こいつらは! 実験台にしないって!!」
一際強く彼は暴れた。
「言っただろうがぁっ!!」
足許から悪寒がきた。アズは脛から腿へ、腕から肩へ、びっしりと鳥肌が立つのを感じた。長く、長く、怒りの咆哮、そして絶望の絶叫が続いた。その