貴族狩りの噂
文字数 3,354文字
夜半の警邏組はそれを大きく過ぎてから各々の寝床を出た。
一日のはじめに冷たい水で体を清め、余分な体毛を剃り落とす。次に礼拝室に向かう。祭壇前の小卓に、祈祷が捧げられた護符がある。陶器の破片に紐を通したもので、日々の加護に感謝を捧げてそれに首を通す。
個人祈祷の後は食事。成人した自警団の団員たちは、大食を禁じる戒律により、必要以上の食物を口にしない。その日の朝食はキャベツの酢漬け、玉ねぎにキノコとゆでた小麦を詰めたもの、そして旬を過ぎたクレソンのスープだった。
食後は身だしなみを整える。質素だが動きやすいチュニックの中に、自警団の標準装備品であるダガーと
仕上げは歯みがき。馬毛の歯ブラシと一つまみの岩塩を入れた陶器のボウルを手に、テスは西棟から井戸のある中庭に出た。
中庭には五人の仲間が特に何をするでもなく
「鴨、おはよう!」
一人は声が大きくてよく喋る、いつも笑顔のトビィ。もう一人は双子のアズで、表情の変化に乏しく、テスへの声掛けも双子の相棒に任せるままだった。
彼らはテスの
「そこ邪魔」
井戸水を適量汲み、水を器に移し、紙に包んだ塩を歯ブラシにこすり付ける。犬が顎を上げてテスを見たが、またすぐ楽な姿勢に戻った。歯ブラシを口に入れると、ちょうど三時の鐘が鳴った。三時の鐘は開門の合図。大量の行旅人がコブレンに入り、そして出て行く。
今日がどういう一日になるかはわからない。
そう思い起こさせる鐘の
平和とは言い難い自警団の日常でも、朝から団員たちの間に浮ついた空気が流れる場合は二通りあった。一つは『鏡の広場』に捨てられた赤子や幼児が自警団に拾われた翌日。もう一つが、珍しくも客人がある日。
「トビィとアズは例の客に会ったんだね」
と、中庭の隅の日陰で腕を組んで立つ女が声をかけてきた。
「何を見たのか、テスにも教えてあげなよ」
彼女はレミ。黄色の長髪を二つに分けて三つ編みにし、足首まで届くワンピースをまとっている。一見したところ、武器を持って戦うような女には見えなかった。その、いかにも勝気そうな目を除いて。
テスは早々と口をゆすいだ。
「何か口を滑らせたのか?」
アズが重い口調で答えた。
「お前が見たっていう、客の男の剣についていた紋章を確認しに行ったんだ。あの紋章は北方領の公爵家のものだ」
「北方の? でもアズ、特に聞きなれない
「貴族や貴族の護衛なら訛りを隠すくらいわけないだろう」
「でもどうして北の貴族が」
「西方領から来た商人の一隊が噂をしていたのだけど」
その疑問に答えるのは、藍色の髪を結い上げた、昨夜のティンシャの女である。彼女の名はアエリエ。隣では、彼女の年下の兄弟子ミスリルが、話に耳を傾けている。
「北方領では公爵家主導の貴族狩りが横行しているそうよ。既に十を超す数の名家が断絶させられたって」
「どうして」
「わからないわ。遠すぎるし、南西領にいる私たちにそこまで影響がある話じゃないし」
トビィが優しげに尋ねた。
「テス、北方領の公爵家はわかる?」
「それくらい知ってる。リリクレスト家。家長は北方領総督、セヴァン・リリクレスト」
「もう一度聞くけど」腕組みしたままのレミ。「アズは図集で確認したんだね。客の男の剣の紋章は、リリクレスト家の家紋で間違いないって」
アズは頷く。
「間違いない」
「だったらあの女の子、リリクレスト家の公女なのかな」
「貴族狩りを主導する公爵家の娘が、どうして貴族狩りから逃げてるんだ?」
「公爵家の娘が逃げる理由なんていくらでもあるよ。貴族狩りが横行するほど領土が荒れているなら。それに男の剣は公爵から
レミの言葉によってもたらされた沈黙は、今度は長く続いた。
惑星アースフィアにて居住可能な唯一の大陸、『囲いの大陸』とその他の島々は、六つの領土に分割されている。
海のない大陸中央部は
北方領『
東方領『蝶凱の天領地』。
西方領『鋼塔の天領地』。
南東領『不死廊の天領地』。
そしてここ、南西領『
これが、地球人によって創造され、そしてこの惑星アースフィアに遺棄された新人類『言語生命体』たちが生存できる唯一の領土だった。
かつてこの大地で共に暮した地球人たちは、千年の昔に大部分が星を去り、残る地球人も、この星の裏側の、別の大陸へと去ってしまった。
囲いの大陸を取り囲む海には、地球人によって
セイレーンの歌は、言語生命体の生命を維持する『言語子』と呼ばれる分子に働きかけ、その結合を打ち消し体をバラバラに
そして、空には天球儀。
惑星を包む天球儀の存在によって、言語生命体が宇宙空間に出ていくことはできない。それどころか、天球儀保護の名目によって、空を飛ぶ技術を得ることすら禁じられていた。
こうして、地球人に似せて作られたという言語生命体たちは今、囲いの大陸に閉じ込められている。
「それより問題なのは」
テスの相棒、ミスリルがようやく口を開いた。
「昨夜客を追い回していた連中が、コブレンのどの組織の
朝日の中で、中庭の沈黙が憂鬱の色を帯びた。
「下手したら外部の連中とやりあうことになるかもな」
コブレン自警団は、コブレン市外の出来事には関与しない。市内にはびこる暗殺者たちの動向に目を光らせはしても、それが雇い主の政敵を討ちに市外へ出て行くとき、止め立てすることはない。
同様、市内で身の安全を脅かされる行旅人がいれば保護するが、彼らがコブレンから出た後についてはまるきり関与しない決まりだった。
だが、客人に向けられた刺客及びその雇い主にとって、そのような決まりは知ったことではあるまい。
コブレンから遠い、全く外部の人間から敵意を向けられる可能性は常にあった。
憂慮すべき事態は他にもある。
この南西領には様々な戦の火種がある。とりわけ南の神官領シオネビュラと北の神官領リジェクの関係が急激に悪化し、いつ武力衝突が起きてもおかしくない状況だった。
もし万が一、戦の火が燃え上れば南西領陸軍がこのコブレンに駐留するということも考えられる。そんな折にコブレン自警団が外部の武装組織といざこざを起こしていたらどうなるか。コブレンから追放されかねない。
誰かが東館の廊下を中庭へと走ってくる。
鳴る床板を何ら気にせず踏みつけて、その迫り来る足音は、東館の扉を開け放ち、銀色の煌めきと共に中庭に転がり込んできた。
銀髪をツインテールにした目も覚めるような美少女で、頬を上気させた彼女は息を切らして呼びかける。
「誰か来てください!」
その少女、十六歳のジェスティに、ミスリルは目を向けた。ミスリルが一言でも放つのを待ちもせず、少女はつっかえながら報告した。
「運河で一般人の死体が上がりました。旅券を持たない密入城者です!」