終末の光景(希望)
文字数 3,284文字
シオネビュラの一番大きな港には、タルジェン島居留地の住民たちが旗という旗を手に集っていた。タルジェン島旗、ヨリスタルジェニカ神官団の鯨と虹の団旗、大漁旗。やがて水平線の向こうからヨリスタルジェニカ神官団の艦隊が押し寄せてくると、群衆は気の早い歓声をあげ、手や打楽器を打ち鳴らし、精一杯に腕を上げて旗を振った。母親の腕に抱かれる幼児さえ、小さな旗を握っていた。
行方知れずとされていた正位神官将シンクルス・ライトアローを筆頭とする海の神官団が、
その誇らしげな帆を前景に、日没が、都でエルーシヤの祈りの歌を沈黙させた日没が、シオネビュラにも訪れる。
※
控え室に、廊下から足音が迫ってきた。アエリエは目を開けた。眠っていたわけではない。余計な体力を使わぬようにしていたのだ。これより
少し目を閉じていただけで、頭はすっきりした。迎えの神官が来たようだ。いよいよ正位神官将の執務室に通される。
と思いきや、開かれた扉の向こうに姿を現したのは、正位神官将の正装に身を包んだヤン・メリクルその人だった。護衛と正位神官将補を従え、杖を右手に立っている。アエリエはソファから腰を浮かせた。
「なんと」
ミサヤが悠然と立ち上がる。
「正位神官将
「執務室は窮屈でな」
メリクル正位神官将は、客人を待たせる控え室に入りながら、座るよう手で示した。そして、自分は低いテーブルを挟んだ向かいにあるソファに腰を下ろす。ミサヤも座り直した。ミサヤの左隣には歌流民のゾレアが、アエリエの右隣にはマナが座っている。
アエリエが目を向けたとき、ゾレアはニコニコと笑っていた。コミュニケーション手段が限られている歌流民にとって、笑うことは武器だ。彼女なりに、敵意がないことを精一杯に示しているのだろう。
「この部屋は眺めがいい」メリクルはアエリエたちの後ろの窓を顎で指した。「が、どうやら陽が沈んでしまったようだな。残念だ」
そして、背後に控える部下に指図した。
「レリハ神官将補、客人に新しい茶と菓子を用意しろ」
「承知いたしました」
最低限の護衛だけを残して部下たちが退室すると、メリクルは大きく息をつき、アエリエに向き直った。
「クサナギ二位神官将補殿はともかく、そちらは初顔合わせとなるな。改めて、シオネビュラ神官団正位神官将ヤン・メリクルだ。二位神官将レグロ・ヒュームのもてなしが不足していたことをお詫びしよう」
「こちらこそ粗相をいたしました。アエリエ・フーケと申します。こちらはマナ」
「『月』か」メリクルはマナに向かって目を細めるが、微笑んだようには見えなかった。「それとも『砂の書記官』か?」
気まずい沈黙の中、二杯めの茶と星獣祭のパン菓子をはじめとする焼き菓子が運び込まれ、テーブルに並べられた。
シオネビュラ神官団には型破りな人間が多いようだ、とアエリエは考えた。レグロにメイファ、このメリクルも。
萎縮することはない。アエリエは自分を励ました。私だって、そう型通りの人間ではないじゃない?
「ありがたく頂戴いたします。さあ、マナも」
アエリエが貝を
ミサヤは礼儀上茶を啜っただけで、菓子に手をつけなかった。
「これはこれは。いい食べっぷりだ、客人」
「食べられるときに食べ、眠れるときに眠る。それでこそ人間は生き延びられると思いませんか?」
そのアエリエの言葉に、初めて笑みとわかる表情を見せると、メリクルは自分の足に肘を置き、身を乗り出してきた。
「シオネビュラじゅうの歌流民をあたった結果はいかがであったか、客人」
アエリエは二個目の焼き菓子に伸ばしていた手を止める。
ミサヤが代わりに答えた。
「歌流民たちは己の栄誉によって打ちひしがれるでしょう」改めて頭を下げる。「こちらも粗相をお詫びいたしましょう。再び
「堅苦しいことは抜きにしよう。して、何を言いたいのだ、クサナギ二位神官将補殿」
「歌は常に移り変わるもの、流動こそが歌のあるべき姿と歌流民は考えます」
少なくともシオネビュラにいる氏族は、と付け加えた上で、ミサヤは続けた。
「我らの神である地球人が死に絶えても、我らには歌が残っている。歌の流動は
膝の上で握っていた拳を開き、ミサヤは締めくくった。
「つまるところ、彼らは滅びを見たいのです」
「知っている」
メリクルもまた茶で喉を潤した。
「奴らの理念など、ただの死滅の上塗りだ。地球人の死滅、言語生命体の死滅、歌の死滅。私には、どれが先かという順番にさほど意味があるとは思えんがな」
「地球人は今頃何をしているのでしょうか?」アエリエは話の流れを変えた。「それとも、もうアースフィアには存在しないのでしょうか?」
これにはマナが少女の声で答えた。
「仮に地球人がアースフィアに残留しているとしても、言語生命体が滅びるところを見たがらないと私は考える」
沈黙、そして注目。
アエリエから見て、マナは個性が希薄だ。無理もない。人間の体を得てまだ数ヶ月しか経っていないのだ。それでも地球人について語らせれば誰より饒舌だ。正確性も期待できる。
視線に促され、マナは続けた。
「地球人は進化し変わりゆく自分たちに困惑し、それまでの自分たちの姿を留める記念碑として言語生命体を創った。それが言語生命体の始まり、地球人の戦いの始まりだった」
「地球人の戦いとは?」
「己に似た被造物という鏡の中に没頭し、自己を見失いたいという欲望との戦いです、正位神官将様。地球人たち各々が、被造物の中に、自分が知りたいと願うことの兆候を探る思弁的な戦い。言い換えれば、地球人は言語生命体の中に、己が
「その戦いに打ち克った地球人は?」
「いない」
沈黙の質が変わる。マナを除く全員が、空気のように沈黙している護衛の兵士一人一人さえもが、その言葉の意味を吟味しているのがアエリエには感じられた。
「このように地球人は、愛憎入り混じる感情を言語生命体に抱いていましたが、言語生命体を滅ぼしたかったわけではないのです。滅ぼしたいと願う対象から意味を見出したり、意味を与えることはできません。私に言えることは、この異変は言語生命体に対して地球人が与えた罰だ、という流言は全く無視して構わないものだということです」
「どうやら私たちは」アエリエは着地点を見出し、口にした。「地球人を持ち出すことなく、自分たちの滅びに、自分たちで意味を見つけなければならないようですね」
「滅ぶとは限らん」
「仰る通りです」
滅ぶとは限らない。そうだ。アエリエは復唱する。
「滅ぶとは限らない……そう。私たちはそういう希望を抱くことができます。人間の脳には希望を抱くという機能がある」
「それを地球人に教えてやれ」
ミサヤが言った。
「私たちが地球人を映す鏡にすぎないと思っているのなら、その思い上がった自我に、私たちはお前らなしに希望を抱けるのだと突きつけてやればいい」
「菓子は堪能されたか」
出し抜けにメリクルが尋ねた。アエリエは微笑む。
「大変美味しゅうございました」
「では客人、こちらに来られたし」
メリクルは立ち上がり、正位神官将補に預けていた杖を手に取った。
「面白いものをお見せしよう」