蛇の言葉
文字数 3,251文字
レンヌ・オーサーを退室させてから体感で三十分が経った。彼女から聞いた話、とりわけ一番弟子のミスリルが陸軍関係者を殺害し、制止を振り切って逃走したという内容を一人で受け止めるのに、三十分もかかったのだ。体感で三十分なので、実際はもっとかかったかもしれない。コブレン自警団団長グザリア・フーケは、深く静かに失望した。無駄な時間はないというのに、椅子に座って何を呆然としていたのだ?
夜は更け、団長の執務室の外ではあらゆる事態が動いていた。ミスリルとアエリエとマナの捜索――月環同盟軍の治安部隊による歌流民殺しの捜査――日輪連盟軍による攻囲――戦争。
人と話そうと思った。あるいはいっそ眠るか。さして迷いはしなかった。話そう。腰を浮かしかけると、まるで
「誰だ?」
重い両開きの扉の向こうから、女の声が返ってきた。
「渉外部門のクラリス・ヘスです。団長、少しお話がございます」
グザリアは思わず扉から目を背けた。壁からしんしんと冷気が滲む石造りの部屋。その壁に掲げられた自警団の団旗が、
目を扉に戻す。クラリス。渉外部門の毒蛇クララ。いいだろう。椅子に座り直し、自分に言い聞かせた。俺には蛇の言葉が必要だ。
「いいぞ。入って来い」
言われた通り、クララは入ってきた。
「夜明けまで待てば
「聞いてるよ」グザリアは大仰に肩を竦めた。「聞いてないように見えるか?」
実際にひどい顔色なのかもしれない、と思った。クララはあえて、
「ミスリルのことだな」
「ミスリルが従軍歌流民とその従者を殺したことです」
わかりきっているのになお、クララの言葉と口調は、短剣を突き立てられるような痛みを胸に与えた。
「隠蔽は通用しますまい。明らかに熟練の暗殺者の手口ですので」
この女は俺を苛立たせにきたのかとグザリアは思った。被害妄想だ。
「月環同盟軍は怒り狂って犯人を捜すだろうな」
「提案がございます」
「なんだ」
「我々も被害を訴えるのです、団長。おわかりいただけますか? 我々は犯人を見たと――その犯人から被害者を庇おうとし、自警団から被害者を出したと――」
グザリアは言葉もなく、机から右手を浮かしかけた。
「――つまりミスリルとアエリエに、死んでもらうのです」
「だが、二人の死体がないな」
「なくて構いません。私はすでに彼らがマナを連れて市外へ脱出しているものと見込んでおりますが、その場合、コブレンにのこのこと帰ってくるとは思いません」
こめかみを揉んでほぐしたいのを我慢しながら、グザリアは右手を机の天板の上に戻した。初めからそうしていたというように。
「特にどの組織の仕業であると名指しする必要はございません。団長、あなたは訴えるのです。我が子同然に育てた二人の弟子が、治安維持の使命のもとに若い命を散らした。私はそれを誇りに思っている。だがどうか、亡骸だけは返してくれまいか。あの二人の遺体が辱めを受けることだけは耐えられない。返さないなら取り戻すまで。そうして――」
「捜索の口実を得る、と」
「いいえ。潰しの口実です」
まじまじと見つめれば、クララの葡萄色の瞳は、飲めば死ぬ酒のようだった。何故かしら、クララ自体がどす黒く見えた。白い皮膚の下を流れる血から、黒い瘴気が立ち上っているかのように。
「この
グザリアはゆっくり考える。この助言者をどう評価すべきかと。
もちろんこれは、クララにしか思いつけないことでは決してない。だが、実際に進言に来たのはクララだけだ。そういうことだ。
「早い話がでっち上げだな」
上の空に聞こえないよう、慎重にグザリアは言った。
「誰を最初の生贄に選ぶがいいと思う?」
ミスリルにはもう会えない。
「まずは、できるだけ我々が憎む必要のない組織から入るがいいと思います。ですが、議論が必要なその件に入る前に、もう一つだけ」
もう会えないのだ。アエリエにも。
「何だ?」
「マナという、あの少女についてです。いかにもあの少女は、今回の騒動の元凶」
真綿に水が染み込むように、疲れた頭がクララの提案を吸い込んでいく。
「ですが、その正体が
厄介なことになるだけではないか。グザリアはそう言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。むしろ厄介ごとを避けようとした結果がこれなのだ。
あの二人の客、リージェスとリレーネを北の塔に泊まらせ、その荷物を目撃した夜に、保安局なり市長のもとへ突き出していればよかった。そうしていれば、後になって『月』のかけらを見つけてしまっても、おかしな工作をしなくて済んだのだ。ミスリルをタルジェン島に行かせることもなかった。ミスリルとマナが出会うこともなかった。
「団長、
無感情な声に促され、グザリアは重い口を開いた。
「あの二人を見つけ出さねばならんか」
「ええ。ですから、一秒でも早く決断する必要がございます」
「ミスリルが言われるままにマナを差し出すとは思えんな」
「拒むなら、本当に死体になってもらいましょう」
部屋には天籃石の光が淡く満ちるのみとなった。天井から垂れるシャンデリアに散らされた石の光が、クララの水色の髪を、氷のようにきらめかせていた。
「……実に、お前は言葉を選ばん奴だ」
「団長に決断を頂くためならば、私はどのような評価も受け入れます」
「今更何の評価だ! 俺は知っているぞ。必要のためならお前がなんでもする人間だということをな」
グザリアは身じろぎし、居ずまいを正した。
「それでだ。ミスリルとアエリエの目を盗んでマナを略取できるか、説得できるか、反対にあった場合戦って二人に
追跡にあてられる人間は、自然と限られてくる。
「一人目はアザリアス・オーサー」
すかさずクララの応答。
「適任かと存じます」
成績を見る限り、序列一位のアズに対してミスリルが勝る種目は、
「二人目はトビアス・オーサー」
実力はミスリルととんとんだ。だが、双子の兄弟だけあって、アズと最も息が合うのが彼だった。二人を組み合わせれば、互いの実力以上の力を出せる。その上トビィには、ずば抜けた嗅覚と追跡力を持つ、四つ足の忠実な
「マナの確保には女性の団員もつけたほうがよろしいのでは」
「あの二人が補佐をつけたいと望むなら、レミをつけてやってもいい。三人とも、実力も自警団への忠誠も確かだ」
「異存ございません、団長」クララは一礼した。「一度、渉外室へ戻ることをお許しください。明日にはミスリルとアエリエの殉職がコブレン中に知れ渡っていることでしょう」
言葉通りにクララが出て行くと、執務室はそれまでより一層重い沈黙と緊張で満たされた。耐えかねるように、グザリアは音を立てて立ち上がった。