全世界アノミー
文字数 3,818文字
薄明かりの中で、マナが顔を上げた。靴音の残響が螺旋階段の闇に吸い上げられていく。
「どうしたの」
アエリエが問うと、マナは唾を飲み込んでから早口で答えた。
「誰か歌ってる」
唯一の照明となる
「マナ、気をつけて」
アエリエも急いだ。マナの
そのうち、アエリエの耳にも混声合唱めいたものが聞こえ始めた。
いや、違う。
甲高いさざめきだが、人の声ではない。マナの言葉のせいで歌と勘違いしたのだ。
螺旋階段の果てが見えた。扉がある。
押し開けようとするマナを、追いついたアエリエが制した。マナは汗をかき、息を弾ませている。そんな彼女の手に天籃石を握らせ、扉に背中をつけた。
背中で扉を押す。
微かな光が漏れてきた。
カタカタという音、さざめき。
警戒しながらも、アエリエは扉から背を離す。
右腕で大きく開け放った。
シオネビュラ北神殿最上階が目の前に広がった。
そこは、物を取り払いさえすれば広い空間なのだろう。円形の床には白と黒のタイルが敷かれ、十歩と離れていないところに、さざめきを構成する物たちが積み上げられていた。
一抱えもあるかさ歯車が床に水平に設置され、腰の高さで回っていた。力が伝導される先を目で追うことは不可能。それほど種々の歯車と軸、
歯車には木目に似た模様があるが、明らかに金属で、人より大きな物、爪の先より小さな物、あるいは目に見えないほど小さな物があるかもしれない。
中の構造が丸見えになる透明の軸受が、かさ歯車の奥に隠されていた。膝の高さにあるそれは、透明でありながらガラスのようには見えず、未知の材質でできており、軸に合わせて内部の針状コロが回転すると、甲高いさざめきの波にその音が加わった。
透き通る軸受へと足を踏み出したとき、アエリエはふと疑問に思った。
この部屋の光源は何?
「
男の声が降ってきた。
「お気をつけてお越し下さいと伝えるよう、兵に言いつけておいたのだが」
足を踏み出したままの形で、アエリエは顔を上げた。
「お客様は走ってお見えになられたようだ」
円形の吹き抜けの部屋を見上げれば、二階、三階、四階と続いており、各階の手すりの向こうに書架が見えた。そのとき理解した。書架及び一部の手すりが優しく発光しているのだ。
声の主は五階にいた。
「あるいは、客人には――」
若草色の神官服。
神官将の地位を表す
表情までは見えずとも、
「これが歌に聞こえたようだ」
「あなたは誰?」
マナの声がまっすぐ吹き抜けの上に吸い込まれていく。男は声を出して笑った。
「既にご存じと思っていたが、呼びつけておきながらこれ以上礼を失する真似は致しますまい。私はレグロ・ヒューム二位神官将。このシオネビュラ北神殿の現在の
足許がぐらつく。
アエリエはひどい目眩に襲われたのかと思ったが、違った。床が浮き上がったのだ。
五階のレグロの姿が少しずつ大きくなる。
「我々が
上から光が差した。
「天球儀を見たまえ」
自然の光だった。顔を上げる。天井が
青空と大地の間には、半透明の網目。
天球儀だ。
「地球人が去って千年。言語生命体は、天球儀やセイレーンといった偶像によって呪術的に保護されてきた」
「呪術」
マナが繰り返す。
アエリエは顔を横に向け、身構えた。レグロが手すりに両手を置き、身を乗り出したからだ。
彼は五階から動く床へと飛び移ってきた。
「地球人は神である」
着地の勢いで曲げた膝をゆっくり伸ばすレグロは、床の端から楽しそうに語りかけた。
「
こうした愛憎の止揚によって言語生命体は独自の世界を作り上げることができた。そう、歌の力を用いて」
アエリエはレグロと向かい合う床の端に立ち、目の力だけで問いかけた。
それで、あなたは何が言いたいの?
床は、レグロがいた五階を通り過ぎなおも上がっていく。天井の穴は広がりつつあった。
眩しい朝。
光の中でレグロが問いかけた。
「アエリエ・フーケ殿、天球儀の意味とは何か?」
その、挑発的な笑み。
アエリエも余裕を持って微笑み返しながら、悠然と答えた。
「存じません」
天井が開くにつれて、光と影が角度を変える。レグロの爪先が、神官服の裾が、膝が、腰が、胸が、光に染め上げられていく。
ついに直射日光がその顔を照らしたとき、レグロは声を上げて笑った。
「素晴らしい! 一周回ってパーフェクトな回答だ。私たちは誰も天球儀の意味を知らない。それは言語生命体が地球人の真意に背を向け続けてきたということだ。結局のところ、私たちは天球儀がある意味を」急に優しい口調になり、「誰も知らないのです」
「二位神官将殿は、先ほど『我々は天球儀によって呪術的に保護されてきた』、と仰ったばかりですが?」
アエリエは、光の中で目を細めた。
「大なり小なり、宗教的な象徴には意味があります。私たちの心性が天球儀によって保護された時代があったのでしょうか。そして今は?」
レグロは黙って見つめ返してくる。やはり、どこか楽しそうに見えた。アエリエは問いかける。
「聖職者である二位神官将殿にお尋ねします。天球儀という最大の宗教的象徴の意味を、あなた方聖職者も含めて誰も知らないのであれば、言語生命体の社会は象徴の意味を忘れて
これ以上の挑発はない。
聖職者たちが不可侵のものとして保つ地球人信仰を、その象徴を、既に意味を失ったものなのではないかと尋ねているのだから。
だが、レグロは挑発を意に介さぬように振る舞った。
「意味を忘れたというよりは、天球儀等の
はずだった
か?」レグロは前に歩み出て、動く床の中央で立ち止まった。
「フーケ殿、正しい発問はこうだ。“それら宗教的象徴がそもそも何を意味しているのかを、はじめから、我々は知らなかったのではないか?”
いかが思われる」
ついぞ、床が天井に達した。
外の風が頭頂に触れる。
天井が視界の上端から下へ動くにつれ、シオネビュラ北神殿の城下の様子が明らかになっていった。
そこは最高の見晴らしを誇る塔で、視界一面に赤いスレートの屋根、屋根、屋根。街路はイチョウの葉で黄色く、イチョウ並木はほぼ丸はだかになった枝を空に伸ばしている。
水車の音。
粉を挽く臼を回す牛の声。
パン屋の煙。
子供が赤子を背負い、バターやチーズを載せた荷車を引いて売り歩いていた。街は目覚め、さまざまな声や物音があちらこちらで増えていく。
眼差しを遠くに飛ばせば見えてくる尖塔の群れは西神殿か。その向こうでは、海が、果てなく横たわりながらきらめいていた。
背後には、シオン丘陵の広がり及び山脈が見えるはずだ。
「思考の可能性としては大変興味深いですね」
アエリエは、一つゆっくり大きく瞬いた。
「ですが、二位神官将殿の仮定が意味を持つのは、天球儀やセイレーンといった聖遺物があくまで純粋な象徴として
のみ
機能する場合においてです。物理的に現存するそれが、言語生命体の活動範囲を制限する装置として機能している以上、そのような場合はあり得ません」「私たちと」
マナが声を上げた。
「そんな話をするために、あなたはここに呼んだのですか?」
アエリエは笑みを消し、レグロはマナに目を移した。
「それとも、
「マナ」
「あなたはこう思っているのではありませんか? それら聖遺物が、実は存在しないのではないか、と」
マナがじっとアエリエを見つめた。その視線を受け止めて、アエリエは頷いた。
喋らせてほしい、と、目は言っていた。
「これはこれは」
レグロは一層目を細めて笑う。
さすがに二位神官将ともなれば格が違う。アエリエがそう思ったのは、レグロが本当に楽しそうだったからだ。
余裕ぶってみせるだけではこの男は崩せない。
「マナ殿とお名前を伺っておりますが、間違いはございませんか」
「はい」
「ではマナ殿、何故私がそのように思っているとお考えになられたのか聞かせていただきたい」
「自明です」
マナは小柄ながら顔を上げてレグロの上背を見上げ、言葉の力で踏み込んだ。
「現にあなた方が行方を追っていた『月』は、セイレーンの監視をすり抜けてこの大陸に漂着した物。この件を受け、あなた方はセイレーンの稼働状態を
私に問い合わせてまで
調べたではありませんか」