アズじゃない
文字数 2,473文字
平原は
その関所を使っていた南部ルナリア独立騎兵大隊は姿を消していた。今や検問も行われていない。
季節は秋から冬へ移ろい、あの妹思いで親切なカルナデル・ロックハート大尉はどこにもいなかった。
リアンセは、遠くの関所から足許へと目の焦点を結び直す。
もとは足首までの丈があった短い草は折れ、土は
隣のミスリルがリアンセから離れ、少し歩いて草の上に身を屈めた。
彼が見つけたのは軽歩兵用の盾だった。
表面の傷を調べ、裏返す。右上に文字と数字の組み合わせが彫り込まれていた。
「隊列番号よ」
後ろから覗き込み、リアンセはその字列を指差した。
「正規の支給品ね」
「大事な物だな」
「そりゃそうよ」
「つまり」
ミスリルはもう一度盾をひっくり返す。表面に戦いの痕跡を示す傷や凹凸は見られなかった。
「出ていくときには荷物をまとめる暇もなかったってわけか」
盾を元通りに置いて、二人は沈黙のうちに歩き続けた。
※
平原の南に森がある。森の近くに、コブレン自警団が信仰するものと同じ異端宗派の共同体がある。その集落に、今夜標的が宿泊するはずだった。
教会に立ち寄りたいと、ミスリルはリアンセに言った。
「コブレン自警団の動きを知りたいんだ」
空を覆う雲の向こうで太陽が沈みつつあった。二人は街道を外れて歩き続ける。普段から人通りの少ない細い道には大きな石がごろごろ転がり、道にせり出す草は、枯れていても丈が高く、見通しが悪かった。
「集落の人たちは自警団がどうなったか知ってるの?」
「知ってるわけないと思うけど、俺が頼るのは連絡網だよ。自警団の誰かが俺を追ってるなら、その誰か宛てに手紙を送ってる可能性がある。あるいは追手のほうから自警団に連絡を取るのに教会が利用されるんだ。共同体の人たちにとっては貴重な収入源さ」
視界を覆う草を、ミスリルが腕で払った。
ゆるやかな上り坂が終わり、遠くを見通せるようになった。
いくらと離れていないところに木の柵があった。
柵の向こうは延々と続く農地で、休耕中の畑と冬小麦の畑とが、半々で広がっていた。ずっと遠くに針葉樹の黒い森があり、森の手前に、小さな家々が点在している。
集落が見えるようになってから、その入り口にたどり着くまでに徒歩で一時間かかった。
ミスリルはその男女の前に立ち、服の中から陶片の護符を引っ張り出して、胸に下げた。二人に対して加護を祈る姿勢を取ると、二人はハッとした様子で、無言のうちに祈りを返した。
「コブレンから参りました」
すると、男のほうが尋ねた。
「自警団の方ですか?」
「はい。書状が届いているかと思うのですが」
「あります」
緊張と熱のこもった返答に、ミスリルの胸が痛んだ。
「教会堂で預かっているんです。こちらへどうぞ」
男と、無言のまま困惑と疑惑の目を向けてくる女について、ミスリルとリアンセは集落に足を踏み入れた。
他に、出歩いている人はいなかった。
視線を感じる。
『ミスリルは自警団からマナを守るんだね』
顔を上げる。
教会堂にたどり着いていた。石造りのポーチは掃き清められ、扉の両脇には火が掲げられていた。ノッカーは丁寧に磨き込まれ、集落の男が恭しい手つきでノックした。
厚い扉の向こうから
反応がない。
「お待ち下さい」男が言う。「先生はゆっくりとしか歩けないんです」
待つこと数分。夜の色を吸った雲が、針葉樹の森の黒い輪郭を浮き上がらせた。戸口の四人の姿をあからしめるものは揺れる
扉の向こうから、杖をつきつつ歩く足音が聞こえてきた。
鍵穴の向こうで老人が
「誰かね」
「コブレン自警団からお客様です。預かった書状のことで」
男は答え、ミスリルを振り返った。
「ほう」
鍵穴の向こうから感心したような声。
「お名前を聞かせてもらえますかね」
目で促され、ミスリルは追手として間違いのないと思う名をあげた。
「コブレン自警団のアザリアス・オーサーと申します」
「アザ……?」
訝しむ様子。
「宛名は、そんな名前じゃなかったんですがね」
ミスリルは鍵穴を見つめる。
動揺を顔に出さない努力をしなければならなかった。
アズじゃない?
アズ以外の誰が俺を追ってるっていうんだ?
リアンセが、ミスリルの肩に後ろから手を当てた。
「連絡が行き違いになったようでして」
ミスリルに変わって鍵穴の前に立つ。
「本来こちらに立ち寄らせていただくはずだった者は、事故にあって引き返したんです」
「そうですか。それで、その人はどんな名前でしたかね」
リアンセは唯一知っている他の団員の名を答えた。
「マリステス・オーサー」
緊張を
その後に、鍵が開き、扉が外側へ押された。
「疑うような真似をして、失礼致しました」
足が悪い老人に変わり、集落の男女が扉を支えた。
「いかにも、我々はマリステス・オーサー様宛ての書状をお預かり致しております」
テスだって?
ミスリルは生唾をのみ、上の空で老人に挨拶をした。
何を言ったか覚えていない。
俺とアエリエへの追手が、テス?
どういう事情なのか、わかるはずもなかった。