全ては変転する
文字数 2,371文字
「都で一番高い建物は?」
大股で歩くミスリルが尋ね、リアンセが答えた。
「総督公邸の東の高台に建つ時計塔よ。それがどうしたの?」
「俺に会いたい、とマナは言った」
天球儀は消失し、月は二人の頭上で半月よりさらに小さく、伏せた三日月になろうとしていた。
「問題は、それが単なる願望なのか、それとももう一度俺に会えるっていう希望を見出していたのかってことさ。希望は可能態だ。この世界では現実態に移行しうる」
総督公邸の裏口へと続く細道を共に歩みながら、リアンセは目を細めた。そうね、自己憐憫にひたってる暇がないのは魂にとっていいことよ。
ミスリルが小さく何かを唱えた。首から下げた陶片の護符に口づける。
「この
「希望する勇気を」
ミスリルは月を仰いだ。マナ、希望を捨てるな。
「時計塔に案内してくれ」
「どうするつもり?」
「少しでも月に近付きたい。笑えるくらい少しでいい――」
そのとき、総督公邸の通用門からこそこそと出てくる二人の人影をリアンセは見咎めた。そして驚きに打たれた。
「閣下! 総督閣下ではございませんか!」
人影、アランドと、彼の旅行鞄を手にした執事はそろってリアンセに顔を向けた。リアンセはミスリルに呟いた。
「時計塔には案内するけど、その前にもう少しだけ付き合ってもらうわ」
リアンセはアランドのもとに駆け寄った。アランドが尋ねた。
「何者だ」
「シルヴェリア・ダーシェルナキ公女殿下付き情報士官、リアンセ・ホーリーバーチ中尉です」
「これはいい」アランドは自嘲した。「出頭する手間が省けたというものだ。そうではないか?」
執事は悲しい目をして答えなかった。
「君たちは私を縛り首にするつもりだろう」
「それは私にはわかりかねることです」
「嘘も大概にしたらどうだ?」
「脅威となる者がいない場でどのような嘘が必要だというのです? さあ閣下、両手を上げてください」
アランドは耳の高さに手を上げた。
「もっと高く、さあ!」
リアンセは来た道を引き返した。
ミスリルは佇んで、待った。
やがて、その道の先から歓喜の声が湧き上がった。
「総督が降伏したぞ!」
「都は解放された!」
囚われの道を進むアランドの背中はもう見えなかった。ミスリルは見に行こうとはしなかった。
この道の先は歴史の表舞台だ。暗殺者が顔を出す世界ではない。ミスリルは崩壊する月の破片が散りゆく空の下、歓喜の歌と虜囚への悪罵にじっと耳を傾けた。
※
エーリカとシルヴェリアは歌い、剣を交え、息を切らしては動きをとめ、息が整うと再び歌い剣を交えるということを続けていた。その間、会話はなかった。
『呼ビ求ム ソノ叫ビノ
氷トナル トキニ』
エーリカが歌う。
ダーシェルナキ家の
『暗闇ガ 太陽ヲ
エーリカの剣を打ち払いながら、シルヴェリアが歌をつなぐ。
『月ハ 深キニ眠ル憧レ』
二人ともよろめき、剣を上げる腕は重く、回避する足取りは重かった。
『砕ケル サダメニ 生マレ……』
天球儀が消え去ろうとも、月が崩れていこうとも、お構いなしの二人だった。
「何故、止めませんの?」
いよいよリレーネはシンクルスに尋ねた。二人のうちどちらかの体力が先に尽きる。それで勝負はつく。
「歌は常に変容を要求する、ということだ」
シンクルスは答えて言った。
「考えてみれば単純なことであった。常に移り変わる、すなわち固定化を拒絶する歌の力が、どこまでもあり続けようとする意志……生き、変容し続けようとする意志を自らの力の内に閉じ込めようとすれば、結果として『あり続ける意志を固定化する』という罠に嵌まることになる。その固定化の罠によって、歌の力はあり続ける意志の中に逆に取り込まれてしまうのだ」
「……つまり?」
「歌の変容の結果が滅びということはあり得ぬ。変容の続きは更なる変容だ」
歌を受け、エーリカが苦しい息の下からシルヴェリアに言い放つ。
「望んで生まれてきたんじゃない」
それが、再会以来姉妹のあいだで初めて交わされた会話となった。シルヴェリアが応じる。
「望まれて生まれたわけですらないのかもしれぬ」
シンクルスが呟いた。
「それでも全ては変転する」
新しい歌が生まれるのだ。リレーネは突然理解した。変容が何を導き出すかわからないが、それでも生まれるのだ。
月の声が聞こえた気がした。
意味を魂で享けるがいい、生きとし生けるものよ。
姉妹の歌が、エーリカとシルヴェリア、それぞれ違う言葉で締めくくられた。
『我らを眠らせたまえ!/目覚めよ!』
※
千年歌い継がれてきた姫歌が、今、変容した。
先に崩れ落ちたのはエーリカほのうだった。シルヴェリアの指揮杖が脱力したエーリカの手からサーベルを弾き飛ばし、エーリカはそのまま後ろによろめいて、尻餅をついた。
シルヴェリアも汗にまみれて肩で息をしていた。後ろに下がり、はじめそうしていたように、染め物屋の荷車の後ろに粗い仕草で腰を下ろした。
二人の荒い呼吸音がしばらく続いた。
「……私の負けだ」
エーリカは宣言した。全ての感情は体の中から歌によって汲み出されていた。もう憎くなかった。少なくとも今は。
「南西領の総督にでも、月環同盟の盟主にでも、好きなものになるがいい」
そのとき、どこかの部隊の触れ役が大声で叫ぶのが聞こえてきた。
「アランドを捕獲したぞ!」
歓声の中で、シルヴェリアはエーリカに笑みを見せた。
「もう良いのか?」
驚くほど愛情深い声だった。目に、いつもの残忍さも抜け目のなさもなかった。シルヴェリアもまたそれらの性質を歌によって汲み出されたばかりなのだ。
「ああ」と、座り込むエーリカ。「もういい」
時刻は二十三時を回っていた。