残り九人
文字数 3,738文字
まだ薄暗いうちから、集落のあちこちの家で細い煙が上った。昨日と一変して晴れた空に桃色の
祈りの時間だ。
濡れた土の匂いがする風が若者たちの鼻をくすぐった。風は、獣の
若者たちは、目を開け、身構えながら声のしたほうに顔を向けた。冬小麦の穂の向こうにはまだ何も見えない。
だが、もう一度、高い咆哮が天を揺るがした。
その声は狼に似ていたが、狼にしては声が大きすぎる。しかも、奇妙な抑揚があった。
見張りたちは顔を見合わせた。不安を覚えた人々が、戸口に姿を現した。
祈りの時間は、警戒心が強い人たちのヒソヒソ話の時間に取って代わられた。
「何が鳴いてるのかしらねえ?」
集落の人々も、このように鳴く野生動物など知らなかった。中年の、顔をシミで覆われた女が、太い皺に飾られた目を、集落で一番大きな家に向けた。
「都会から来た偉い先生なら知ってるんじゃないかしら」
その都会から来た偉い先生は、茂みに小用を足しに行ったきり、生きて帰ってこなかった。
※
目を血走らせた三人の男が仕置き小屋を見つけた。弩と片手剣で武装し、一人が戸板を蹴り倒した。中は一見して無人だった。怒り狂った男たちは小屋に火をかけた。だが人が炙り出されてくることはなかった。
ミスリルとリアンセは、そのとき既に小屋を離れて森の
「短気な連中だな」
例の咆哮が、最初よりも幾分近くでまた聞こえた。確実に集落に近付いてきている。二人とも当然気にしていたが、話題にはしなかった。
「次の標的は誰だ?」
リアンセは考え込むような様子を見せた。
「……なんだよ。決めてないのか?」
「
陸軍情報部の情報交換所というのは、都市にある鳩の溜まり場や水路、市場、露店、場合によっては何がしかの店舗など様々であり、そこを訪れるときは、リアンセは必ずミスリルと別行動をとるのだった。
「ただちょっと、信憑性がね」
「へえ。信憑性が低いと」
「行ってもいいんだけど。リジェク近辺で狩れそうなのはもう狩っちゃったでしょ。残りの標的はほとんど所在不明か、都にいるし」
「ミナルタにいるっぽいのは何ていう奴なんだ?」
「ゼラ・セレテス」
時が止まる。
足が固まった。
ミスリルに遅れ、リアンセも立ち止まった。表情を強張らせるミスリルを不思議に思いながら補足した。
「ソレリア民兵団団長にしてグロリアナ領主、ゼラ・セレテス子爵よ」
「あいつが何をしたんだ?」
焦げ臭い風に吹かれながら、ミスリルは頭ひとつ低い位置にあるリアンセの金色の瞳を見つめた。
ゼラに会ったのは一度きり。数十分話した程度だ。それでも高潔そうな印象はしっかりと残っている。話している間、ゼラの眼球の動き、指の動き、喉の動きに対して観察を怠らなかった。ゼラは嘘をついていなかったように思う。己の領分を守りつつも、コブレンからの来訪者には誠実に対応した。
「知り合い?」
「知り合いっていうか、一度だけ会ったことがある。ソレリア民兵団――」
いきなり耳が聞こえなくなった。
大音響が二人の周囲のあらゆる音を塗り潰したのだ。
二人は反射的に耳を押さえ、頭を低くした。掌で守られてもなお、鼓膜は悲鳴をあげ、頭はがんがん痛んだ。
朝方から聞こえ続けていた声の
「いきなり近くなりすぎだろ」
まだ耳の聞こえがおかしい。
リアンセは、ミスリルが集落の方角へ向き直るのを見、意志の確認は必要ないことを悟った。
声の主は集落にいる。
ミスリルが様子を見に戻るとして、つきあうのか?
無駄な自問。
目配せだけで、二人は集落へと道を引き返し始めた。
――これまで散々、ミスリルを自分の都合につきあわせてきたではないか。
※
物見櫓は蹴り倒されていた。誰によって? 星獣しかあるまい。
「だーかーらぁー!」
マゼンタピンクの星獣に乗る女のドレスもマゼンタピンクだった。
「最後にこいつを見たのは誰だって聞いてんの。言ってる意味わかるぅー?」
「わかったわ」
リアンセがミスリルに耳打ちした。
「
「標的か?」
「ええ。自分から来てくれるとはありがたいわね」
「集落の人たちはありがたがってないぜ?」
森の手前にある教会堂の裏の茂みから、二人は井戸がある集落の広場を注視していた。
ミュゼが乗る星獣は木馬の形で、青や緑で描かれた意匠は、遊ぶ子供やプレゼントの包みを模したもの。それら動く模様に精神を魅了された人々は、ふらつきながら辛うじて棒立ちの姿勢を維持していた。
木馬の前後の足をつなぐ二本の板の間で、男が
「えっ、なに? そこの人。もう一回言って?」
布張りの
ミュゼが腰に左手を当て、わざとらしく右手を耳につけながら前屈みになると、胸が一層強調された。
「そこの顔面シミだらけで小便みたいに黄色い歯ァした貧相なおばさん! あんただよ、あんた」
ミュゼの髪はレモン色。快活な少女のようにツインテールにしているが、紛れもなくいい年をした成人だった。
「さっき何か言ったでしょ? アタシの耳は誤魔化せないからね!」
「耳はいいはずよ」
リアンセはミスリルを軽く引っ張り、茂みに完全に身を隠すよう促した。
「だってあいつ歌流民の歌い手だったもの」
「歌流民の歌い手って歌うときしか声出さないんじゃなかったか?」
「破戒したのよ。その場合他の歌い手の世話役になるか氏族から追放されるかだけど、その行き着く先がアレ。歌流民専門の人身売買業者と一緒にいるのも頷けるわね」
「奴は何を強奪するんだ?」
「星獣よ。歌の力は格段に落ちても普通の
鈍い音が聞こえた。悲鳴が湧き起こった。ミュゼが鞍から弩を撃ったのだ。
「お母さん!」
子供が叫んだ。ミスリルは茂みから首を突き出すが、倒れた女性の周囲は
「お母さん! お母さん!」
「ちょっと目を離した好きに茂みで死んでたってさあ、普通に考えてさあ、あんたらのうちの誰かが殺したってことじゃんねえ?」
「お母さん!」
ミュゼに
「お母さん!」
「アタシにチクった奴にはルガーの金の隠し場所教えてやるよ。どうせ死んじまったんだしぃ」
平然と弩に次の矢をつがえ、
「どう? そこそこの都会で一生遊んで暮らせる額なんだけどなあ〜」
母を呼ぶ子の叫びが絶叫に変わる。
弩が動いた。
「うるっさいなぁー」
右手にダガーを握るミスリルを、左側から衣服を掴んでリアンセが止めた。
続く一声で二人とも動きを止める。
「いったぁ!!」
茂みから身を乗り出すと、ミュゼは弩を持っていないほうの手でこめかみを押さえていた。
ミスリルは瞬時に理解した。
誰かが物を投げたのだ。
群衆の顔が、自然と一方向を向く。
その先にいる幼い少年が、顔と体を強張らせた。
十になるかならないかという歳の少年に、ミュゼの悪意が降り注ぐ。
「何してくれんだ、ガキ」
青ざめた少年は、あとずさり、それからくるりと背を向けて、家と家の間へ走って逃げ出した。
家の裏手をぐるりと回って森のほうへ逃げるつもりだ。
「あーあーあーあー」
呆れながら、ついぞミスリルが動いた。少年が逃げるルートを先回りして走り出す。
リアンセはミュゼから目を逸さなかった。
ミュゼは歌わなかった。
にも関わらず、星獣が動いた。
体の右側の前脚と後脚を上げる。木馬の脚をつなぐ板は頭部にくっつき、弧を描く大きな角になった。
二本の角が頭につくまでに、何が起きているのかリアンセは理解した。
木馬の模様が歌っているのだ。
歌わない元歌い手は、口汚くも言い放つ。
「別にテメーら全員殺していいんだからな」
木馬は自由になった四肢で、苦もなく