燃え上がる
文字数 3,565文字
３．
誰かが扉を乱打した。
「ハル！」
鈍い響きが共同廊下にこだましている。
「俺だよ、ヴァンだよ！ 開けて！」
毎日することがなく、暇を持て余してハルジェニクの絵画作成を見守りながら退屈な講釈を受けていたエルーシヤは、いつしかソファで眠りに落ちていたが、跳ね起きた。居間にいたハルジェニクが絵筆を置いて玄関に向かうとついて来た。
扉を開けると、肩も頭も粉雪で真っ白にしたヴァンが、ハルジェニクの両肩を掴んで屋内に押し込みながら体をねじ込ませて来た。すぐ扉を閉めた。
「プリスが逮捕された」
「はあ？」
「君がいた痕跡を全部隠して！」
言うが早いか、廊下を走って角を上がり、居間に駆け込んでいく。ようやく理解が追いついたハルジェニクが居間に戻ると、ヴァンは暖炉にイーゼルを薪よろしく投げ込んでいるところだった。描きかけの絵は既に燃え上がっていた。
「早く！」
と急 かしながら、顔料の瓶や画材として使った生卵の殻を両手で鷲掴みにする。
「待て、その顔料は高い！」
瑠璃の粉末を奪い返し、パレットは自ら火の中に投じた。
「本当に大事な物だけ持って」額が触れ合うほどの至近距離でヴァンが囁いた。「すぐに憲兵隊が来る」
ヴァンはマントのフードを目深 にかぶり、マフラーを鼻まで上げた。目しか見えなくなった。
ヴァンが来てから三分以内に、ハルジェニク、そしてエルーシヤはプリスが住む部屋を飛び出した。
それでも遅かった。
集合住宅の吹き抜けのエントランスに、天井のガラスと雪雲越しの光が注いでいた。階段は廊下の左右にあった。右は螺旋階段、左は階段室になっている。プリスの部屋は共同廊下の右端だが、右側の螺旋階段を駆け上がってくる数人の足音が既に聞こえていた。軽鎧 の触れ合う音を伴っている。
兵士だ。
エントランスを見下ろしたヴァンの喉が、クッと音を立てた。
「こっち」
彼は微笑んでいなかった。初めてハルジェニクを助けたときのようには。ただ、左側の階段室へと身を翻す。
「先に行け」
ハルジェニクはエルーシヤの背中を押した。
三人の足音が、廊下のみならず静まりかえった吹き抜けに鳴り響いた。破壊された昇降機。それが塗り込められた壁。その隣の扉は、百年開放されたままだと言われても納得できる代物だ。色褪せたクッション部がはがれ、蝶番 は原型を留めていない。ドアノブは外れ、持ち去られていた。
「止まれ！」
ハルジェニクが階段室に飛び込むと、廊下の右端で兵士が怒鳴った。
石造りの階段を、ヴァン、エルーシヤ、最後にハルジェニクが、段飛ばしで駆け下りる。細い体付きの少女の飛ぶような身のこなしにハルジェニクは半ば見惚 れた。毎日プリスの部屋でごろごろしながら菓子を食ってたただけのくせに、なんて俊敏なんだ。ハルジェニクは一階にたどり着いただけで足が痛くなった。息をつく。「はあっ！」
顎を上げたら兵士と目があった。真正面にいた。
今、プリスの立場はどれくらい悪いんだ？ ハルジェニクの頭脳を悪い考えが訪れた。いたぶって楽しむかのように。
逃げたら死ぬ。俺じゃなくてプリスが。
「畜生！」
今し方エントランスに入ってきた兵士、ハルジェニクと視線を交わした兵士に、無言のままヴァンが体当たりをかました。兵士は仰け反り、後ろにバランスを崩しながらも腕を前に突き出した。
ヴァンは集合住宅の外に飛び出したが、兵士の腕はエルーシヤのブラウスの袖を掴んだ。今日から宿無しになるというのに彼女は防寒着を着てこなかったのだ。
ハルジェニクはその兵士の後ろに回り込み、膝の後ろを蹴った。兵士は崩れ落ち、エルーシヤはブラウスから手を振り払う。外の様子を窺えば、玄関口に馬車が止まっていた。黒い馬が頭を下げてエントランスを覗き込んでいた。
「気をつけろ！」
転んだ兵士が叫ぶともう一人の兵士が外開きの玄関扉の後ろから姿を現した。たちまちヴァンに肩から体当たりされて、後ろに吹き飛んだ。
ハルジェニクもまた、エルーシヤをかばいながら前庭に飛び出した。雪が激しくなっていた。
「その男を捕まえろ！ 最後尾の奴だ！」
ヴァンは前庭から通りに出る鉄柵にぶち当たった。門扉に閂 がされていた。二、三秒で外せる。だが逃走の成否はその二、三秒が分ける。閂が外れて逃走が再開されたとき、追いかけてきた兵士の指はハルジェニクの襟首を捕まえようとしていた。
間一髪、走り出す。
「最後尾の奴の顔、手配書で見た覚えがあるぞ」
五階から降りてきた兵士に、エントランスにいた兵士が告げた。
「人違いでもいい、しょっ引 け！」
「はい！」
一等兵殿かよ。蝶のようにスカートをはためかせるエルーシヤを追いながら、ハルジェニクは雪に目を細めた。チッ！ いいご身分だな。
前方の路傍には荷車を引いて乾物を売り歩く男がいた。自前の瓶に干した果物を詰める中年の女ともども、二人のほうへ逃げるハルジェニクたちに備えて身構えていた。すれ違うとき、女の短く緊張した息の音を聞いた。
乾物商の後ろの角を曲がる。
直進すると分かれ道。
右前方に進む道と左前方に進む道があり、正面はいくつもの商店が入った古い二階建ての建築物だった。裾広がりの階段が、貴婦人のドレスのように二階部分から垂れていた。
ハルジェニクは道を知らない。ヴァンに任せるしかない。
ヴァンは迷いなく正面の階段を駆け上り始めた。ハルジェニクの持久力などお構いなしだ。
「マジかよ！」
幸い段差は低かった。ただ、雪で滑る。
「そいつらを捕まえろ！ 捕まえてくれ！」
追う兵士が叫んだ。彼らとハルジェニクたちとの距離は、縮まってはいないが開いてもいなかった。すぐ後ろで金属の脛当てがガチャガチャ鳴っている。
二階部分にあがると最初に広場のような空間が出迎えた。人々がこちらを見る。息が苦しい。喉が熱い。燃えるようだ。ハルジェニクは絵のことを思い出す。今夜仕上がるはずだった。さっき、火にくべられて燃やされた。
広場の中央には枯れた蔦しかない花壇。黄銅の鳥。青銅の花。左には手前から奥に向かって靴屋、仕立て屋、小さな給水塔。右奥は閉店した花屋で、その壁に梯子 があった。
屋上に行ってどうするつもりなのか、ヴァンが梯子を上りだす。どこでもいい。ハルジェニクの頭には暖炉に投げ込まれた絵の燃え上がる様子が焼きついていた。絵描きが目の前で絵を燃やされた。畜生、今日のことは絶対忘れないぞ。
「待てコラ！」
上りきった。足首の近くで兵士の力強い手が粉雪を掴む。最後の段を蹴って煉瓦の屋上に上がると、ハルジェニクは上がってきた兵士の頭を思い切り踏みつけた。
「構わないで！」
叫んだヴァンが、手すりのない屋上を横切り、下へと身を投げた。エルーシヤまで迷いなく身投げした。振り向いてハルジェニクに微笑みさえした。ハルジェニクは大時計がある屋上庭園に一人になった。いや、追手が上がってきた。
庭園を突っ切りながら、俺は絵だ、と思った。あの燃やされた絵は俺自身だ。
ヴァンが飛び降りた地点まで来て理解した。二階部分の商店の窓から帆布 のテントが斜めにかかっているのだ。テントの下に煉瓦造りの外廊下と、見上げて下りろと手で煽るヴァンの姿が見えた。身を投げると、またも直前でハルジェニクを捕らえ損ねた兵士が大声で悪態をついた。
「必ず捕まえてやるからな！」
無根拠に言っているのではなかった。投げた体が帆布の上で弾むと、三人の兵士が路地に回り込んで来るのが見えた。体が滑って向きが変わり、薄汚れた帆布の布地と埃の臭いしかわからなくなった直後、エルーシヤの隣に落下した。
息が詰まる。
それでも受け身は取れた。昔取った杵柄だ。武道を離れて久しいハルジェニクは、立ち上がるときまだ絵のことを考えていた。
燃えてしまった絵！ 何を描いた絵だったと思う？ 絵だよ。燃え上がる絵を描いた絵だったんだよ、燃え上がったのは。
「ハハハ！」
外廊下の左端に梯子が立てかけられていた。
「ハハハハハハハハッ！！」
笑うハルジェニクを、地上の兵士が不気味そうに見上げてきた。ヴァンは梯子を下りるかと思いきや、蹴って倒した。かけ直すまでの数秒が逃走の成否をわける。仕返しだ。
荒れ果てた空き部屋に半身を入れ、ヴァンが手招きする。ハルジェニクは笑うのをやめた。
屋内に飛び込み、束 の間 雪から解放される。中に物はなく、かつて何の店舗だったかはわからない。暗い空間を横切って鎧戸を外したヴァンは、あっ！ と叫んだ。その声に衝撃と絶望を読み取って、小さな窓から入る薄明かりの中で、他の二人は立ち竦んだ。
実際、ヴァンはショックで思考を停止していた。
窓から向かいの建物のバルコニーに飛び移れるはずだったのが、小火 でもあったのか、そのバルコニーが焼け落ちていたのだ。
誰かが扉を乱打した。
「ハル！」
鈍い響きが共同廊下にこだましている。
「俺だよ、ヴァンだよ！ 開けて！」
毎日することがなく、暇を持て余してハルジェニクの絵画作成を見守りながら退屈な講釈を受けていたエルーシヤは、いつしかソファで眠りに落ちていたが、跳ね起きた。居間にいたハルジェニクが絵筆を置いて玄関に向かうとついて来た。
扉を開けると、肩も頭も粉雪で真っ白にしたヴァンが、ハルジェニクの両肩を掴んで屋内に押し込みながら体をねじ込ませて来た。すぐ扉を閉めた。
「プリスが逮捕された」
「はあ？」
「君がいた痕跡を全部隠して！」
言うが早いか、廊下を走って角を上がり、居間に駆け込んでいく。ようやく理解が追いついたハルジェニクが居間に戻ると、ヴァンは暖炉にイーゼルを薪よろしく投げ込んでいるところだった。描きかけの絵は既に燃え上がっていた。
「早く！」
と
「待て、その顔料は高い！」
瑠璃の粉末を奪い返し、パレットは自ら火の中に投じた。
「本当に大事な物だけ持って」額が触れ合うほどの至近距離でヴァンが囁いた。「すぐに憲兵隊が来る」
ヴァンはマントのフードを
ヴァンが来てから三分以内に、ハルジェニク、そしてエルーシヤはプリスが住む部屋を飛び出した。
それでも遅かった。
集合住宅の吹き抜けのエントランスに、天井のガラスと雪雲越しの光が注いでいた。階段は廊下の左右にあった。右は螺旋階段、左は階段室になっている。プリスの部屋は共同廊下の右端だが、右側の螺旋階段を駆け上がってくる数人の足音が既に聞こえていた。
兵士だ。
エントランスを見下ろしたヴァンの喉が、クッと音を立てた。
「こっち」
彼は微笑んでいなかった。初めてハルジェニクを助けたときのようには。ただ、左側の階段室へと身を翻す。
「先に行け」
ハルジェニクはエルーシヤの背中を押した。
三人の足音が、廊下のみならず静まりかえった吹き抜けに鳴り響いた。破壊された昇降機。それが塗り込められた壁。その隣の扉は、百年開放されたままだと言われても納得できる代物だ。色褪せたクッション部がはがれ、
「止まれ！」
ハルジェニクが階段室に飛び込むと、廊下の右端で兵士が怒鳴った。
石造りの階段を、ヴァン、エルーシヤ、最後にハルジェニクが、段飛ばしで駆け下りる。細い体付きの少女の飛ぶような身のこなしにハルジェニクは半ば
顎を上げたら兵士と目があった。真正面にいた。
今、プリスの立場はどれくらい悪いんだ？ ハルジェニクの頭脳を悪い考えが訪れた。いたぶって楽しむかのように。
逃げたら死ぬ。俺じゃなくてプリスが。
「畜生！」
今し方エントランスに入ってきた兵士、ハルジェニクと視線を交わした兵士に、無言のままヴァンが体当たりをかました。兵士は仰け反り、後ろにバランスを崩しながらも腕を前に突き出した。
ヴァンは集合住宅の外に飛び出したが、兵士の腕はエルーシヤのブラウスの袖を掴んだ。今日から宿無しになるというのに彼女は防寒着を着てこなかったのだ。
ハルジェニクはその兵士の後ろに回り込み、膝の後ろを蹴った。兵士は崩れ落ち、エルーシヤはブラウスから手を振り払う。外の様子を窺えば、玄関口に馬車が止まっていた。黒い馬が頭を下げてエントランスを覗き込んでいた。
「気をつけろ！」
転んだ兵士が叫ぶともう一人の兵士が外開きの玄関扉の後ろから姿を現した。たちまちヴァンに肩から体当たりされて、後ろに吹き飛んだ。
ハルジェニクもまた、エルーシヤをかばいながら前庭に飛び出した。雪が激しくなっていた。
「その男を捕まえろ！ 最後尾の奴だ！」
ヴァンは前庭から通りに出る鉄柵にぶち当たった。門扉に
間一髪、走り出す。
「最後尾の奴の顔、手配書で見た覚えがあるぞ」
五階から降りてきた兵士に、エントランスにいた兵士が告げた。
「人違いでもいい、しょっ
「はい！」
一等兵殿かよ。蝶のようにスカートをはためかせるエルーシヤを追いながら、ハルジェニクは雪に目を細めた。チッ！ いいご身分だな。
前方の路傍には荷車を引いて乾物を売り歩く男がいた。自前の瓶に干した果物を詰める中年の女ともども、二人のほうへ逃げるハルジェニクたちに備えて身構えていた。すれ違うとき、女の短く緊張した息の音を聞いた。
乾物商の後ろの角を曲がる。
直進すると分かれ道。
右前方に進む道と左前方に進む道があり、正面はいくつもの商店が入った古い二階建ての建築物だった。裾広がりの階段が、貴婦人のドレスのように二階部分から垂れていた。
ハルジェニクは道を知らない。ヴァンに任せるしかない。
ヴァンは迷いなく正面の階段を駆け上り始めた。ハルジェニクの持久力などお構いなしだ。
「マジかよ！」
幸い段差は低かった。ただ、雪で滑る。
「そいつらを捕まえろ！ 捕まえてくれ！」
追う兵士が叫んだ。彼らとハルジェニクたちとの距離は、縮まってはいないが開いてもいなかった。すぐ後ろで金属の脛当てがガチャガチャ鳴っている。
二階部分にあがると最初に広場のような空間が出迎えた。人々がこちらを見る。息が苦しい。喉が熱い。燃えるようだ。ハルジェニクは絵のことを思い出す。今夜仕上がるはずだった。さっき、火にくべられて燃やされた。
広場の中央には枯れた蔦しかない花壇。黄銅の鳥。青銅の花。左には手前から奥に向かって靴屋、仕立て屋、小さな給水塔。右奥は閉店した花屋で、その壁に
屋上に行ってどうするつもりなのか、ヴァンが梯子を上りだす。どこでもいい。ハルジェニクの頭には暖炉に投げ込まれた絵の燃え上がる様子が焼きついていた。絵描きが目の前で絵を燃やされた。畜生、今日のことは絶対忘れないぞ。
「待てコラ！」
上りきった。足首の近くで兵士の力強い手が粉雪を掴む。最後の段を蹴って煉瓦の屋上に上がると、ハルジェニクは上がってきた兵士の頭を思い切り踏みつけた。
「構わないで！」
叫んだヴァンが、手すりのない屋上を横切り、下へと身を投げた。エルーシヤまで迷いなく身投げした。振り向いてハルジェニクに微笑みさえした。ハルジェニクは大時計がある屋上庭園に一人になった。いや、追手が上がってきた。
庭園を突っ切りながら、俺は絵だ、と思った。あの燃やされた絵は俺自身だ。
ヴァンが飛び降りた地点まで来て理解した。二階部分の商店の窓から
「必ず捕まえてやるからな！」
無根拠に言っているのではなかった。投げた体が帆布の上で弾むと、三人の兵士が路地に回り込んで来るのが見えた。体が滑って向きが変わり、薄汚れた帆布の布地と埃の臭いしかわからなくなった直後、エルーシヤの隣に落下した。
息が詰まる。
それでも受け身は取れた。昔取った杵柄だ。武道を離れて久しいハルジェニクは、立ち上がるときまだ絵のことを考えていた。
燃えてしまった絵！ 何を描いた絵だったと思う？ 絵だよ。燃え上がる絵を描いた絵だったんだよ、燃え上がったのは。
「ハハハ！」
外廊下の左端に梯子が立てかけられていた。
「ハハハハハハハハッ！！」
笑うハルジェニクを、地上の兵士が不気味そうに見上げてきた。ヴァンは梯子を下りるかと思いきや、蹴って倒した。かけ直すまでの数秒が逃走の成否をわける。仕返しだ。
荒れ果てた空き部屋に半身を入れ、ヴァンが手招きする。ハルジェニクは笑うのをやめた。
屋内に飛び込み、
実際、ヴァンはショックで思考を停止していた。
窓から向かいの建物のバルコニーに飛び移れるはずだったのが、
