叛逆者の遺構
文字数 4,224文字
「死んだのはモウルとグラッツか」
ゼラ・セレテスはまっすぐリージェスの目を見上げながら、一歩踏み出した。「フレッチはどうした」
「指揮官がいちいち兵の名を覚えていては身が持ちますまい」
「長く親身に世話をしてくれた兵だ。ゆえに負け戦に駆り出されずに済んでいたものを」
言葉の最後のほうに感情の温度があった。
「して、アークライト少尉。私はいちいち用件を解説してやらねばならんのか?」
リージェスは冷たく見下ろしながら答えた。
「『月』でございますね」
「話のわかることだ。
「何故人に渡したと思われる」
リレーネが悲鳴を殺す気配。目を向けると、星獣の背後に回り込んだ兵士が、弩をリレーネに向けていた。威力の低い連弩といえど、この至近距離では命に関わる。
ゼラが尋ねた
「星獣の座らせかたはわかるか」
「いいえ」
「ならば飛び降りろ」
リージェスは迷い、言葉を詰まらせた。迷わなかったのはリレーネのほうだった。彼女の口から歌が
暴走の歌だ。
リージェスは素早く炎剣を収め、両膝をつくと、柵を両手に握りしめて体を押し付けた。急加速が始まった。
リレーネは、同じフレーズを繰り返し歌い続けた。
ゼラと兵士たちはすでに遠くなっている。走っている者もいたが、とても追いつけまい。
「リレーネ、もういい」
暴走は続く。
「もういい!」
急減速。
リレーネの乾いた唇からは、血がにじみ出ていた。声は掠れている。それでも、今度は制御の歌を歌い始めた。もとの歌い手の亡骸は、気付けば鞍から消え失せていた。鞍の向こうで、森が開けていた。
星獣は切り立つ岩肌に出た。
そこは、天然の洞窟を利用した砦だった。陽だまりの中で、大人一人がやっと入れる程度の入り口が、内部の闇を覗き込むよう
「聞いたことがある」
リージェスは、柵に
「蜂起した『ゼフェルの後継』たちは古い
「『ゼフェルの後継』?」
パンジェニーと共に情報収集に勤しんだことがまたしても活きてきた。
「昔、反戦を押し通すために戦争をした連中さ」
まずリージェスが、次にリレーネが星獣の背から降りた。血溜まりを踏むとき、リレーネが懸命に嫌悪を押し隠すのが見て取れた。
洞窟に足を踏み入れると、一気に気温が下がった。リージェスは天籃石を持っていなかったが、上のほうから微かに陽の光が入ってくるらしく、次第に目が慣れてきた。
内部は狭い通路かと思ったが、まずは吹き抜けの広間となっていた。その奥に手彫りの通路が三つ。扉が破壊された痕跡がある。正面の通路を選ぶと、奥から水の音が聞こえてきた。
「ちょっと待っててくれ」
リージェスは走って外に戻り、目を閉じて座っている星獣の背によじ登ると、手を血で染めながら、兵士の亡骸を探った。天籃石の裸石を探り当て、洞窟の入り口に戻った。裸石を岩肌に叩きつける。三つに割れた石を拾い、洞窟の闇に身を浸し、リレーネと無事合流すると、光を放つ天籃石の小さな二つのかけらをリレーネに渡した。
通路は途中で橋になっており、水はその下から湧き出ていた。
「降りれるか?」
「ええ」
高さはないが、下の岩は濡れている。だがリレーネは勇気を出して橋に手をかけ、降りた。高低差はちょうどリレーネの身長と同じ程度だった。
「皮袋に水を満たしておいてくれ。それが済んだら俺が戻るまで橋の下に隠れてろ」
「わかりましたわ」リレーネが頷くのを、手の中の石が照らした。「どうぞお気をつけて」
徒歩とはいえ、ゼラたちも追ってきているはずだ。長くは留まれない。
橋の向こうは急勾配の坂になっていた。上ると、円柱の影が縞模様を描く廊下に出た。右手の岩肌にはいくつかの部屋の入り口が並んでいる。
その内の一つに入り込み、リージェスはたじろいで足を止めた。明らかに生活の気配があったのだ。鍋。真新しい薪。剥いで干された鹿の皮。
そして積み上げられた
ここは隠れるに適した場所ではない。それどころか、敵の拠点だ。
星獣が自ら座り込んだ時点で察するべきだった。
後ずさるリージェスの背に、尖った物が押し付けられた。ダガーの切っ先であることは、確かめるまでもなかった。
「大人しくしろよ」背後に立つ兵士が言った。「そのまま両手を上げろ」
従うしかなかった。リージェスの両手が完全に上がると、背後に人の集まる気配がした。五、六人といったところか。
「振り向かずに、まっすぐ前を見て歩け。さっき水飲み場に隠したお嬢様と生きて会いたければな」
「俺たちに何をさせるつもりだ」
「歩け!」
肩を強く押された。
「俺たちに協力するかどうかは、俺たちのすることを見て考えればいい。だが今は歩け」
やむなくリージェスは歩き始めた。背後の気配もついてきた。廊下は一度外へ向かって大きく張り出したあと、円弧を描いて再度洞窟の中へ向かう。暗い階段に出た。背後の気配に急かされながら中ほどまで上ると、僅かに滲む光芒を背に人影が現れて、階段を見下ろしてきた。
「おい、客だぜ!」
背後の兵が、面白がるように声をかけた。
「お前がコブレンで探し回ってた獲物さ!」
階段を上ると、そこは吹き抜けの広間の真上に当たる空間だった。待ち構えていた人物は、杖をついていた。男はリージェスを睨みつけると、いきなり言い放った。
「おめぇのせいで散々な目に遭ったぞ!」
訛りがきつい。
「何のことだ?」
「民兵団の資産の星獣を狂わされたし、コブレン自警団の男に変な警棒みたいなもんで足を折られたんだ」
「それは災難だったな」
またしても後ろから肩を突かれた。歩き出しながら、今度はリージェスが民兵を睨んだ。
「あの夜俺たちを追いかけ回したのはお前らか?」
「あの夜?」
「コブレンの市街地で俺たちを追って、トリエスタの民兵を殺した」
「俺たちじゃない」
民兵は、杖を使ってひょこひょこ歩きながら眉を寄せた。
「俺の見立てじゃ、あれは――」
「止まれ」
岩に掘られた小部屋の前で、リージェスは立ち止まった。
「この部屋に入れ」
部屋は、五歩も歩けば横断できる狭さだった。奥に板が敷かれ、毛布もなしに人が寝かされている。歩み寄って屈むリージェスの肩越しに、誰かが天籃石のカンテラを突き出した。
リージェスは息を飲んだ。
深く眠るその男の顔がまだらになっていたからだ。真っ黒い色彩が、本来の小麦色の肌と混じり合い、炎のような、それでいて水の波紋のような模様を描いている。
その色があるのは顔だけではなかった。首も、袖口から伸びる腕も、指先も、漆黒に変じていた。
振り向き、カンテラの持ち主に尋ねた。
「この人は何の病気なんだ?」
「病気だって?」
小馬鹿にした目つきと口調ながら、苛立っていることがはっきりわかる。
「知るもんか。俺たちが知ってるのはこれが感染しないらしいってことだけさ」
「この人はお前たちの仲間なのか」
「いや。グロリアナの領民だ。領主様はどうにかこれを癒やしたいとお考えだ」
「『月』がこれを癒やせると?」
「なあ」
コブレンで自警団員に足をへし折られたという民兵が聞き返した。
「お前は『月』を南西領に持ち込んだ罪滅ぼしをしようって気にはならんのか?」
「何の罪だって?」
「それとも、『命令に従っただけ』か? 軍人さんよ」
沈黙が、リージェスと民兵たちの間に流れた。
「北方領の青年将校と公爵令嬢が駆け落ちだと? そんなこと信じる奴はいやしねえ。リジェクが『月』を奪いたがるのは神官団の権威づけのためか? それとも前総督の野望に裏付けを与えないためか? 俺たちもそう考えてたさ。この人を見るまではな」
「この人はどうしてこうなったんだ? 肌の色がこんな風になる症状など聞いたこともない」
そう言いながら、リージェスは横たわる人の指に触れ、それが顔料などではないことを確かめた。
「領主様の別邸に担ぎ込まれたとき、この人はまだ意識があった」
「いつの話だ」
「シオンの戦いの少し前さ。俺たちは領主様がリジェク神官団に暗殺されるんじゃないかって恐れて、逃げるように提案した。そのときに領主様はこの人も連れだしたんだ」
「何故?」
「この人もリジェクから逃げてきたからさ。だがもう一ヶ月この状態だ。飯も食わんしクソもしねぇ。だが肌の変色は進んでる。俺たちにも何がなんだかわからねえ」
この男はリジェクで何を経験したとゼラに語ったのだろう。恐らくそれが、ゼラが『月』を求める理由になるはずだ。
「一旦、リレーネの無事を確認させろ」リージェスは立ち上がりながら言った。「俺が無事なのを見ればあの娘もおかしな真似はしない。見張りに
兵士たちが目配せし合う。杖の民兵が眉間に皺を寄せた。
「いいんじゃねえのか?」
追い立てられるように部屋を出て、弧を描く廊下を突き当たりまで行くと、梯子が立ててあった。瞼の痛みに目を細めながら、梯子をよじ登った。
屋外に出た。
葉を落としきらぬ木々が、天然のテラスの屋根となっていた。
テラスでは、三人の人物に木漏れ日が降り注ぎ、体に影を描いていた。
一人は岩の上に座り込むリレーネ。
一人は自らの衣服で後ろ手に縛られ、倒れている民兵。
残る一人は、まるで庇うかのようにリレーネの前に立ちはだかっていた。
暗緑色の髪が、木漏れ日の揺らぎに合わせて紫になったり青になったりする。左手の小ぶりな半月刀もまた、きらめいたり
次々上がってくる民兵、言葉もなく身構える武装した男たちに動じもせず、その青年、コブレンで確かに出会った青年は口を開き、光と影の中で、半月刀をリージェスに突きつけた。
「俺が何をしに来たかわかるな、リージェス・アークライト少尉」