高貴な者には義務が
文字数 4,290文字
総督府に戻ったエーリカは、まずアランドを探した。アランドは総督公邸にいると彼の秘書から聞かされたときには
「ララセル、グザリア・フーケを呼んでおきなさい。私は公邸に向かいます」
総督府の玄関口でエーリカは囁いた。ララセルが囁き返す。
「どこにお通ししましょう」
「侍従たちとまとめて通用門に」そして耳打ちした。「私たちが月環同盟側についたことを伝えておきなさい」
「承知しました」
エーリカが寒風に逆らって総督公邸にたどり着いたとき、エントランスで待ち受けていたのは婚約者ユンエー・オローだった。
「エーリカ! こんなときにどこをほっつき歩いていたんだ!」
父が娘を叱るように、ユンエーは言い放った。そしてエーリカに歩み寄ると、冷え切った体を断りもなく抱きしめた。
「心配したんだぞ」
口づけ。
ユンエーの首筋からは香水の匂いがするが、唾液は臭かった。しかも抱擁を解くときに、ユンエーはエーリカの左の乳房をチュニックの上からぎゅっと握った。
この男、そろそろ制裁が必要かしら。
「高貴な者には義務がありますわ、ユンエー」
エーリカはユンエーの両肩に手を当てて、そっと押しのけた。
「あなたこそ何をしていたのです。ダーシェルナキ家の人間には、都の民の安全地帯を確保する義務がありましてよ。連盟は都を戦場にしますが、勝利のことしか頭にないのです」
「連盟は勝利を別の戦場に求めることにしたよ」
エーリカは、さも驚いたようなふりをして、オローを見つめ返した。わかってはいたが、聞かされるのはこれが初めてだった。
「もう気が済んだかい? エーリカ」
道理をわきまえた男の口調でユンエーは諭しにかかった。こましゃくれた反抗期の娘に言い聞かせるように。
「君がどんなに走り回ったって、都の民は君に感謝なんてしないんだ。民衆というのはそういうものなんだよ。ここにとどまっていては、日輪連盟もろとも、我々は民衆による制裁の対象となる」
「避難は始まっておりますの?」
「ああ。だから君をここで待っていたんだ」
逃げるとしたら岩塩道路からだろう、エーリカは思った。
オローがエーリカの手を取った。
「今日が何の日か覚えているかい?」
「今日?」
エーリカには日付の感覚がさっぱり失われ得ていた。さて、レライヤ城砦が陥落してから何日が経っただろうか。
「星獣祭の最終日だよ」
寂寥と愛情と憤怒の入り混じった目でオローは言った。つまり、エーリカが望まぬ婚礼を挙げる日だったのだ。たぶん、忘れたいから忘れていたのだろう。
「あら、そうでしたの」とエーリカ。いつ星獣祭が始まったかすら意識になかった。「私としたことが、すっかり失念しておりましたわ」
「今を逃せば、我々が夫婦として交わり一つになる機会は失われる」
「すぐに逃げなければならないのではなくて?」
「それくらいの時間はある。怖くないよ、エーリカ。私は再婚者だ。女性の扱いはわかっている」
なにせ今日は記念すべき一夜だ、私たちにとっての、とオローは言った。
「式は改めてトリエスタで挙げよう。我が一族の領地で」
「トリエスタまで逃げ切れるかしら?」
「私が君を守ってみせる」
エーリカは傍目にもそれとわかる愛想笑いを浮かべた。
「では、荷物をまとめなくてはなりませんわね。私の寝室で待っていてくださる?」
「君はどこへ行くつもりだ?」
「アランドの顔を見て、すぐ寝室に向かいますわ」
オローは相好を崩した。
「挙式は諦めねばなるまいが、我らはとうとう一つになる」
二の腕にぞっと鳥肌が立つのを感じながら、エーリカは裾広がりの白い階段を二階へと上がった。
総督アランドの寝室に向かったが、そこにはだれもいなかった。エーリカはしばし思案して、母パンネラの部屋に向かった。
パンネラの部屋は開け放たれており、戸口にはアランドが背中を見せて立っていた。慌てて荷造りしたようで、室内は荒れていた。
「アランド」
エーリカは後ろから声をかけた。裏切られた者の怒りに震える声で、アランドが事実を告げた。
「母上が逃げた」
「そのようですわね」
「私には何も告げずに」
「私にも、ですわ。アランド。私たち姉弟は捨てられたのです」
「何故」
「鬱憤を溜め込んだ民衆の手に渡すために」
「何故だ?」アランドは振り返らずに問いを重ねた。「母上は私を愛していたのではなかったのか?」
エーリカは拳を握った。どいつもこいつも、頭にハチミツでも詰まってんのか。
「私を愛しているから総督の座を与えたのではなかったのですか、姉上!」
「あの女に何を愛せますか?」
赤い顔をして振り向く弟に、エーリカは冷ややかに告げた。
「富? 権力? そんなところでしょう。もっとも今は身の安全を愛しているようですが」
「姉上は平気なのですか!」
「一つ、提案があります」
エーリカは弟の動揺する両目をひたと見つめて、告げた。
「月環同盟につくのです」
呆然とする弟に重ねて言う。
「都解放軍のロアング中佐が我々を受け入れてくださいます」
「……なるほど、そうですか」アランドは言った。「姉上は風見鶏だ」靴で床を踏み鳴らす。「姉上は母上の同類だ! 勝ち馬に乗って、自分はさも最初から同盟側についていたとでも言うおつもりなのでしょう! そのような振る舞いは誰も許しません!」
「時代が私を許します」
「ああ、そうですか。そう思うなら行ってください、お一人で」アランドの両目から頬へと、涙が伝い落ちた。「私には姉上のような生き方はできません」
「それは結構。ですが、せめて陸軍を引っ込めさせなさい」エーリカは愛情のない声で言った。「できなければ、これ以降の兵士たちの死を総督の個人的な責任として問うこともできます」
「私の前から消えてください」
それを最後に、エーリカは弟に背を向けた。
エーリカが自室に向かうと、扉の向こうではオローが我が物顔でベッドの真ん中に寝そべっていた。背中を枕に、頭を壁につけてご満悦だ。エーリカのお気に入りのベッドシーツに皺が寄っていた。
「いいこと? ユンエー」
エーリカは後ろ手に扉を閉めると、甘い声で囁いた。
「高貴な者には義務がありましてよ」
マントの留め具を外し、肩越しに放り投げた。黒いマントははためきながら紫色の絨毯の上に落ちた。
「民を統治する義務だ」と、ベッドの上のオロー。「我々がいなければ、民はてんでばらばらになり、無法を行う」
エーリカはダーシェルナキ家の
上半身をシャツ一枚にして、エーリカは優雅な足取りでベッドに歩み寄りながらシャツのボタンを外していく。
「いいぞ、エーリカ」
シャツと、さらにその下の肌着を脱ぎ捨て、ついぞ上半身は下着一枚のみとなった。
「なんて美しいんだ」
「高貴な者には義務があります」
「血統を絶やさぬこと――」
エーリカは腰のダガーを抜きながらベッドに、オローの胸の中に飛び込んだ。左膝を枕に、右膝をオローの
オローの笑みから下品な色彩が消えていく。彼は言葉を失った。
「貴様が醜いモノを撫でさすっている間に、ゼラはどんな思いで死んでいったことか……」
「ゼラ? セレテス子爵は関係ないじゃないか。彼は名誉の死を遂げたんだ」
「高貴な者には義務がありますわ」エーリカは前髪を掴む手に力を込めた。「それはなに? 民衆の上にふんぞり返って君臨すること? それとも血筋を絶やさぬこと? お言いなさい」
「エーリカ、君は若くて理想に燃えている」オローは生唾をのんだ。「だから民衆というものの本性をわかっていないんだ。いいかい? 奴らは学がなく、怠惰で、すぐに犯罪に手を染めて……」
「お前のような人間にも高貴な者の義務を果たす機会があります」
エーリカは遮って言った。
「月環同盟につくことです。都のために、民のために戦いなさい」
「なんだって?」
「言っている意味がわかりませんか?」
右手に力が入り、ダガーの切先がオローの喉を刺激した。
「金玉にダーシェルナキ家の名前を書いてほしいなら、戦いなさい、ユンエー」
「君はどこでそんな言葉を――」
「戦うと言え!」
エーリカは怒鳴りつけた。
「私の婿になるのなら、私に従い戦え!」
「君に従うだって? 君はまだ年長者の指導を必要とする歳で……」
「三秒あげるわ、戦うと言いなさい」
「いいかい、エーリカ」
「三」
「いかにも日輪連盟は都を失おうとしているが」
「二」
「大陸全土では優勢で……」
「一」
「君は優しい子だ、私を殺すなどでき――」
できた。
ダガーがオローの喉に沈むと、血飛沫がエーリカの顔に散った。オローは力なく両手を上げ、ダガーを抜こうとした。すでに致命傷を負っているとは信じていない顔だった。彼の目は驚いていた。
強張った舌が突き出た。口からうめきと血の泡がこぼれ落ちて、やがて首を横に傾けた。両手もベッドの上に落ちた。
エーリカはベッドを離れ、先刻とは逆の動作をした。つまりシャツをまとってボタンをとめ、鎖帷子に腕を通し、チュニックを着て腰帯を締め、帯にサーベルを差した。
部屋を出ると、ちょうど廊下の向こうから急ぎ足でやってきたララセルが足を止めた。
「エーリカ様! その血は」
「トリエスタ伯がおくたばりになりましてよ!」
「それは、その……」
晴れ晴れとしたエーリカの表情に、結局ララセルはこう言った。
「おめでとうございます」
「グザリア・フーケはどこ?」
「総督府の通用門に」
「よろしい」
いかにもグザリアは、エーリカの侍従たちに混じって通用門で待機していた。侍従たちは騎馬のままで、グザリアだけが地面に立っていた。
「私が同盟側についたことは、じきに日輪連盟の耳に入るでしょう」
警備の兵を警戒しながら、エーリカはグザリアだけに聞こえるように囁いた。
「私は行きます。あなたにお願いしたいのは、私に対する連盟の刺客を一秒でも長く足止めすること。あなた方を見込んでお願い申し上げますわ」
「いいでしょう」
「私は戻ってきますわ。戦後のコブレンのために」
それは余計な一言だった。グザリアの目に怒りが燃え上がった。利用されるしかないと分かっている人間の、憎悪と諦めの目。
エーリカは苦い後悔を味わいながら自分の馬にまたがった。
走り出す。戦いと炎の中へ。
グザリアが一人、あとに取り残されて遠くなっていく。