たった一人の協力者
文字数 4,218文字
ヴァンが連れて行ったのは、ハルジェニクが活動の拠点とする酒場の奥、その階段を上がり、廊下を渡った先だった。
「俺の部屋じゃないか」
絵の具の油っぽい臭い。乱雑に積み上げられたキャンバスの山の中から人が立ち上がった。その人影が、衣服の中から天籃石を取り出した。石の光がコーラルピンクの色彩を照らし出す。
石を持つ手を顔の前まで上げ、女はおどけて片膝を曲げる挨拶をしてみせた。思わず、ハルジェニクは大声を出した。
「お前プリスじゃないか!」
「改めまして、プリシラ・ホーリーバーチでございます」
ハルジェニクが固まったままでいると、今度は露骨に不満を表して、天籃石を小卓に投げた。
「何よ。私じゃ不満なの?」
「いや、違う」言い訳じみた口調になる。「驚いたんだ。この局面で会うことになるとは」
「私が都にいる事は知ってたんでしょ?」
「ああ。士官学校は卒業したのか」
プリスは呆れたように肩を竦める。ヴァンが先に部屋に入っていきながら教えてくれた。
「プリスとは同期なんだ。俺は歩兵部隊配属で、プリスは広報部。幼馴染って聞いてたけど、普段あんまり会わないの?」
「あんまりも何も」
戸を後ろ手に締めながら、すっかり常套句と化した一言をヴァンに対しても口にした。
「俺は絵描きだぞ。駄賃でももらわなきゃ軍人なんかと関わりあうかよ」
「ひっどぉい」
プリスは当たり前のようにソファに体を投げ出した。ハルジェニクの定位置で、座面が凹んでいる箇所だ。
「プリス、お前の母親はお前が神学校に通ってると信じてる」ハルジェニクは仕方なく、他に座る場所のない部屋で、立ったままでいることにした。「何だって士官学校なんかに行って、それでまた何だって広報部に」
「広報部の徴募部隊よりどこかの神官団のほうがマシって根拠ある?」
プリスの神官嫌いが家庭の事情に根ざしている事を、ハルジェニク自身がよく知っていた。
ロザリア、リアンセ、そしてプリスのホーリーバーチ家三姉妹は、仲の険悪なライトアロー家とアーチャー家の間で板挟みになって育った。ロザリアがシンクルス・ライトアローの
ただ、プリスだけは上の二人とは母親が違っていた。当主スレイ・ホーリーバーチの後妻は娘プリシラだけは見放せぬからと、夫に内緒でプリスに送金しているのだ。ただし、神官になれという条件で。
「大した根性だ」
ハルジェニクは呆れまじりながらも、心から言った。所属が広報部であるというのを信じる気は起きなかった。実のところ情報部の諜報員で、表向き広報部に紛れ込ませているだけかもしれない。ヴァンもそう。つまり、誰も信用できなかった。
「プリスのことはもういい。で、あんたは何なんだ?」
ヴァンはソファの背もたれに腰を預け、もたれかっていた。
「え? ヨリス少佐の関係者」
「何だよ『少佐の関係者』って。どれくらい繋がってるんだ?」
「君のことを知ってる程度には繋がってるかな」
では間接的に公女シルヴェリアとも繋がりがあることになる。
「少佐も今どこに行ってしまったかわからないし、陸軍の中にもいろいろな
ヴァンは弾みをつけて背もたれから体を離した。
「例の薬の正体を一緒に暴いてほしいんだ」
※
例の『薬』についてわかっていること。
それは『グロリアナ製』と呼ばれる。
それは一般的に想像される薬とは違ったものであり、製造ないし使用には歌流民の関与が必要となる。
それに汚染された人間には、皮膚の一部が変色する等の異変が現れる。
それは五年前にも一時的にグロリアナ近辺で流行し、コブレンにまで流れたが、すぐに収束した。
五年前の流行よりさらに一年前、グロリアナでは大規模な浚渫工事が行われ、そこで異様な物が掘り起こされた。
その『異様な物』はリジェク神官団が回収した。それを直接目にしたものは失踪し、近隣では「人間が消失した」との荒唐無稽な噂が流された。
※
「目新しい情報はなしかあ」
今はハルジェニクがソファに座りこみ、プリスが部屋をうろついていた。ハルジェニクは苦々しい気分を味わった。目新しい情報がないからヨリスにお払い箱にされたのだ。ハルジェニクはグロリアナまで、肌が黒く変色した人間を探しに行ったのだ。だが結果は虚しかった。
「ねえ、プリス」
ヴァンの呼びかけで、プリスはうろうろするのをやめた。二人は画学院から払い下げられたイーゼルを挟んで向き合った。彼らが視線を交わし合う時間は長く、言葉によらず互いの意思を確認し合っていた。
それが終わると、今度はプリスが呼びかけた。
「ねえ、ハル」
「何だよ」
「片付けをしに行こうよ。まだ人通りがあるうちに」
何もかもを広場において逃げ出してきたことをハルジェニクは思い出した。あそこに戻るのはぞっとしない想像だ。だがいずれは片付けなければならないのだ。ならば、この二人がいるうちがいい。朝になったら彼女たちにも陸軍での仕事があるはずだ。
渋々ながら、ヴァンとプリスに付き添われてハルジェニクは広場に戻った。
よほど邪魔だったと見え、キャンバスとイーゼルは建物の壁に投げ捨てられていた。
「ひっでぇ!」
秋の落ち葉がそそぐベンチを描いた習作である。絵筆や顔料をしまう鞄は、切り裂かれ、現金がごっそり抜かれていた。ハルジェニクは忌々しげに道行く酔客たちを睨みつけたが、犯人はもうこの中にはおるまい。広場は賑わしく、ガス灯が、若者がふざけて振り回す酒瓶を煌めかせていた。夜もそれほど遅い時間ではない。まだしばらくこの流れは続くだろう。
「それ、ハルが描いたの?」
ハルジェニクはキャンバスから汚れを叩き落としていたが、プリスの問いに手を止めた。
「ああ、どうだ。よくできてるだろう」
「どうって言われてもなあ」よせばいいのにプリスは正直な感想を言った。「どこかで見たことあるっていうか、普通じゃない?」
「何だと?」するとハルジェニクは肩をいからせ、「確かに一見ありふれた構図に見えるかもしれない。だがよく見ると仕掛けがあってべらべらべらべら」
専門用語を交えながら早口で捲し立てるので、プリスには本当にこう言っているように聞こえた。
「べらべらべらべらべらべらべらべら!」
「ねぇヴァン、私喉渇いちゃった」
たちまち飽きてヴァンを振り向いた。ヴァンは憚るように小声で、「聞いてあげようよ」
「なんで?」
「だってあの人一生懸命解説してるよ? かわいそうじゃん」
「聞いてんのか、おい」
ようやく「べらべら」以外に聞き取れる言葉が出てきたので、プリスはまた正直に答えた。
「ごめん。全然聞いてなかった」
「一生懸命解説してやったのに!」ハルジェニクは腹を立てた。「もういい! 帰れ! 絵だけ褒めて帰れ!」
「駄目だよ、まだ会って欲しい人がいるもの」
「誰だよ」
ハルジェニクの片付けは全く進んでいなかった。彼に代わって売り物の小さなキャンバスを拾い、脇に抱えながら、プリスは囁いた。
「私たちが見つけた唯一の手がかりよ。ほら。早くしないと時間が無駄になっちゃう」
夜が更ければ人通りは減る。再度襲撃に晒されるのだけは御免被りたい。ハルジェニクはぶつくさ言いながらも、足早にプリスの後をついて歩いた。後ろをしっかりヴァンが警戒する。
プリスが連れて行ったのは、彼女が母親の送金で借りている集合住宅の一室だった。士官学校を卒業しても、独身寮に移らずに、もう五年も住んでいる部屋だとプリスは言った。
なるほど、彼女の好きそうな部屋だった。
余計なものがなく、かといって寒々しくもない。床も壁も明るい色彩で統一されており、特に広間の壁のタペストリーが目を引いた。花と泉が描かれている。彼女の生まれた家は泉のほとりにあったのだ。
こいつは寂しくないのだろうかと、ハルジェニクはふと思った。
「広いな。何部屋あるんだ?」
「五部屋! それとこの広間」
「一人暮らしで五部屋もいらないだろう。安い部屋に移って節約したらどうだ?」
明らかに相当古い、つまり、文明退化の浅い時期に建てられた住宅だ。ハルジェニクが勝手に戸を開けて覗いた部屋は、殺風景で窓がない。
「あ、ちょっと。勝手に開けないで」
「この部屋は?」
「どうでもいいでしょ! いつまでもお兄ちゃんづらしないでよ!」
「お兄ちゃんづら!?」
ハルジェニクは衝撃を受けた。そんなつもりはなかったのだが、まさかそう思われていたとは。いつからか。子供の頃からか。そういえば、プリスと自分とでは年が八つも違うのだ。
「いい? ハルジェニク君が用があるお部屋は
こっち
」こっち、をやけに強調しながらプリスは廊下を曲がり、奥の扉を押し開けた。
中は光に満ちていた。ふんだんに使われる蝋燭及び大小の天籃石で、昼と見まごうほどだった。
この部屋を、プリスは友人を泊めるのに使っていたのだろう。いかにも若い娘の好きそうな、安っぽい天蓋付きのベッド。そこから垂れる豊かな布地。反対に、床には敷物がなく、寒々しいのが滑稽だ。
その床に垂れた素足。
細い足首と、痩せたふくらはぎ。ハルジェニクの視線は丈の長いスカートにぶつかった。それは黒く染められている。ハルジェニクは目を、女の足からその全身へと移す。
黒衣の女は髪まで黒かった。前髪を中央で分け、後ろ髪はまっすぐ垂らしている。正面を向いていても、その後ろ髪は相当な長さがあるのではないかと予測できた。
顔を見た。少女だった。少女は顎の角度をあげて、ハルジェニクを見やる。無言。
「あの子は喋らないのよ」プリスが言う。「歌流民。私たちに協力してくれる唯一の歌流民」
物音を立てず、歌うときにしか声を出さず、死ぬときに大きな声で笑う。彼女たちの歌には言語生命体の肉体に作用を及ぼす力がある。星獣の作り手。例の薬物の作り手。
知らず、不気味なものを見る目をハルジェニクは少女に注いだ。けれど少女は意に介さぬように、思いがけず陽気な感じで微笑みかけてきたのだった。