無垢なる人の毒殺
文字数 4,734文字
寒波が去り、ぽかぽかと暖かい日のあと再びコブレンが吹雪に見舞われたとき、今度の寒波は狂気の熱を帯びていた。
激戦区となった第二城壁の外側からは様々な物品が移送されつつあったが、ある倉庫の管理人は、
建物は薄い氷に覆われた。市民は可能な限り例年通りの雪かき組織を結成しようとした。新雪がかき集められると、下から凍った路面が現れて、通行はより危険な状態となり、その氷にも新雪の白い粒がたちまち貼りついた。
日輪連盟軍の荷馬車は通行困難となり、しばしば立ち往生する彼らに酒を売る商売が
青ざめた将軍は、直ちに司令部の警備を増強した。代わりに手薄となった第二城壁近くの部隊の指揮所では、連隊長の大佐がまだ日のあるうちに喉を裂かれた。
異端信仰の集会を開いた七、八人の無害な市民がリジェク神官団の小隊によって斬り伏せられた。武器を準備していたから、という口実だったが、殺された市民たちが持ち寄っていたのはなけなしのパンと衣料だった。
信仰者たちは異端と正統、教派の壁を超えて結束した。前からコブレンにいる、勇気のある三十前後の若い神官は、以前礼拝を荒らされたときに殴られて頬骨を折られたのだが、それ以前と変わらぬ滑舌と熱意で、いかなる礼拝も神聖で犯しがたい権利を持っていることを説いた。リジェク神官団の宿舎の前には、声高に祈りながら
異端の信仰者たちはというと、自分たちは迫害されているという思い込みから一層堂堂と祈り、集会し、教条を声高に唱え、行うようになった。
死者の霊の
その余韻が高く尖ったコブレン市街の屋根屋根を飛び越えていくと、娘は膝立ちになり、しばし呆然とする
そして、膝の痛みを堪えながら、彼女が暮らす粗末な小屋へと帰っていった。
※
一時間歩いて、娘は町外れの小屋に帰り着いた。外れかけた戸板を斜めに開き、隙間から体を滑り込ませて黒く厚い布を引く。
壁の破れ目を雪雲の光が灰色に塗っていた。隙間風が吹く屋内では、小屋の真ん中の
暖をとりながら眠るため、竃の前には娘の寝具が敷かれたままになっている。靴を履いた足で寝具をどけ、竃の横に積んだ薪を一本、また一本、火に投げ込んだ。熾火は消えそうなほど小さくなり、部屋は薄闇に閉ざされ、しばらくすると薪から水気のはぜるパチパチという音とともに明るさが増してきた。
娘は大釜の蓋を開け、覗き込んだ。
木の蓋の下では大小いくつもの鉱石が煮られていた。
ふっ、と息をつき、火の前にしゃがんで手をかざす。その温かさに目を閉じたとき。
男の声がした。
「
娘が目を見開いたときには、男は戸口の布を腕で押しのけて、既に小屋に入り込んでいた。
「失礼。知らずにやっているのならあまりに危険だと思ってね」
若く、痩せている。外の明かりが後ろから差し、青年の髪を黒紫色に照らし出した。
「誰が君に教えたんだい?」
青年が布から腕を離す直前、彼が薄笑いを浮かべているのが娘には見えた。
「煮出して飲むと体にいいって? それともまさか」
娘は立ち上がろうとした。体が
「それともまさか」青年は繰り返した。「知っててやっているのかな?」
「誰に飲ませるの?」
青年が一歩踏み出すのに合わせ、娘は両足と両肘を使って後ずさる。青年が竃の前に来たときには、娘は小屋の奥の壁まで追い詰められていた。そこで右肘をバネに体を
青年は追わなかった。火に照らされ、ある流行り歌の一節を口ずさむとすぐに、娘は小屋に戻ってきた。
二人になっていた。
銀色の髪をマントのフードで隠した二人目の少女が、最初の少女を小屋の中に押し込んだ。
「ジェスティ、ご苦労さん」
ジェスティは小屋の主に組みつき、そのまま仰向けに倒した。娘は悲鳴をあげようとしなかった。視線が溺れる人のようにアスターに縋りついた。
「僕は質問をしているんだ」
優しげに言いながら上衣のポケットから小さな万力を出す。指つぶし器だ。そっと屈み込むアスターを見ながら、少女は大きく開けた口で荒い息を繰り返した。白い息が、吐き出されては消えていく。過呼吸を起こしかけていた。
「答えない?」
馬乗りになったジェスティに固められながら、娘は右手でジェスティの手首を掴んでいた。アスターは娘の手をジェスティの手首から剥がした。
「問題は、君が見た感じ十四、五歳のいたいけな女の子なことじゃないんだ」
少女の肌は雪のように白かった。
「……ふぅん。どうやら君は日常的に砒素と接しているようだね」
その白く細くあかぎれのある小指に、冷たく角張った指つぶし器が嵌められる。
「いいかい? それこそが問題なんだよ。君が誰に砒素を使おうとしているのか。または誰に使っているのか」
「待って」
蚊の鳴くような声で、初めて娘は口をきいた。
「その前にやることがあるはずよ」
ほとんど万力を締め始めていたアスターは、にっこり笑って指つぶし器を手早く外した。
「そうだね。まずは爪を剥がさないと」
今度は小型の
「北ルナリア副市長!」
恐怖に息を喘がせながら白状した。
憎悪を込めて。
「ジェレナク・トアン!」
アスターも、また無言で娘を取り押さえるジェスティも、これには目を丸くした。二人は若く未熟な毒殺者の目に、自白した者に特有の絶望と微かな
小屋には火の
「……もしかしたら君は、どうしてその男を殺したいのかを語りたくて仕方がないかもしれないけど」
アスターは小さな錐を娘に見せつけてから、それをベルトに挟んだ。
「憎まれて当たり前の人がどうして憎まれてるのか聞いても仕方がないからね。じゃ、次の質問にいくよ。
憎まれて当たり前の人の群れの中から、ジェレナク・トアン副市長を選んだのはどうして?」
「手近だから」
「どうやって彼に接近するの?」
「私、毒見が仕事なの」
「今も?」
娘は頷いた。
「日に三度、私は北ルナリア市の部隊の指揮所に行きます。毒見をした後で、私が毒を入れます」
「砒素を選んだのは素晴らしい判断だ」
満足げにアスターは言った。
「慢性砒素中毒は他の病気に偽装しやすく、無味無臭、飲食物に混ぜたらほとんど気付かれない。君のご両親は何の仕事をしていたの?」
「薬屋です」
「それは
困り顔の娘に、アスターは首を振った。
「ううん、大事な質問は、今からするほうね。君はトアン副市長がいる指揮所で変わった星獣を目にする機会があるんじゃないかい?」
「はい」
「その数がどれくらいかわかるかい?」
「わかりません」
娘はアスターの目に、鼓動に合わせて開いたり閉じたりする
「数が毎日違うんです。同じ星獣を見かけたり、見かけなかったりして、毎日なんらかの星獣がいるのは確かなんですが――」
娘は声を震わせながら続けたが、そこまで聞けば十分だった。つまりコブレンにいる星獣兵器は周期的に入れ替わっているということだ。
「君は星獣が指揮所から出ていくところを見たことがあるかな?」
薬屋の娘はアスターのために的確な回答をした。
「星獣は出ていくとき、必ず岩塩道路を東に通っていきます。そこから出て行った星獣は指揮所に戻ってきません」
ジェスティはアスターに、アスターはジェスティに、意味ありげな目を向けた。目配せしたとき二人は同じことを考えていた。
都ではミナルタからの塩の供給が絶え、コブレンの岩塩が需要を増している。通常十一月上旬に閉鎖される岩塩道路が今も使われているのはそのためだ。
つまり星獣兵器が岩塩道路で輸送されるなら、行き着く先は。
都だ。
※
第二公女エーリカは自己顕示欲の強さと豪奢な暮らしぶりで知られているが、都への帰還はひっそりと行われた。歩兵に護られて大通りをゆく馬車に、疲れて殺気立つ人々が顔を向けた。彼らは無言だが、目は雄弁だった。
建物の間から飛び出した主婦が、馬車に向かって突っ込んできた。槍を持つ歩兵が大声で制しようとしたが、結局体当たりで動きを封じなければならなかった。歩兵二人に舗道に押さえつけられながら、主婦は馬車に声を張り上げた。
「お願いです! どうか戦争をやめてください! 武器の放棄を! 平和を
総督府へ向かう馬車は、速度を緩めず主婦の前を通り過ぎていった。
馬車の窓際で、エーリカは深いため息をついた。ララセルを挟んで反対の窓際に、五十がらみの大柄な男がいた。
「あれが『ゼフェルの後継』ですわ。例の」
男は凍りついた目を、護衛武官の向こう側にいるエーリカに注いだ。肩まで伸びた金髪や無精髭と同じく、青い目も加齢で色褪せていた。
「ゼフェルの後継軍は、実際に都でどれほどの武装を進めているのですか?」
エーリカが答えようとしたとき、窓の向こうで歌が湧き上がった。
降りしきる雪の向こう、五階建てで三角屋根の邸宅が並ぶ街路から、それは聞こえてきた。
「……星獣奏ですわね」
エーリカは窓枠に手をかける。ララセルが止めようとしたが、エーリカは構わず窓の下部を内側に引いて細く開け、つっかえ棒をした。
自然発生したようなその歌は、知り得ぬことを知ろうとした男が一夜にして妻子を失う悲劇を歌うものだった。内容からして長い歌の断章であろうと推測されるのだが、それ以上の詳細のわからぬ、不気味で後味の悪い歌だった。
『喜ビ歌エ 新シイ 星獣ガ今宵生マレタ
尽キヌ生命 無キ生命
造物主トハ何者ゾ』
「ゼフェルの後継軍について語れることはありませんわ」
エーリカは窓を閉めて言った。
「それよりも、私はあなたに新型星獣の屠りかたをご教示頂きたいのです。あなたの部下たちが命と引き換えに試された、その戦い方を」
男の目に火花が散る。
「いいえ、改めて申し上げるようなことではございませんでしたわね」
声にかき消されぬように、エーリカはしっかりと呼びかけた。
「失礼いたしました。コブレン自警団団長、グザリア・フーケ殿」