逃亡者は歌う
文字数 4,589文字
「おい」後ろの民兵の声が尖る。「知り合いか?」
リージェスは迷ったが、意を汲み首を横に振った。
「知り合いだが仲間じゃない」
「どうだか」
一呼吸置いて、「わからないな」離れた場所に立つテスへと声を上げた。間合いは十歩もある。本当に斬りかかってくるつもりがテスにあるかはわからないが。
「コブレンの殺し屋が何をしに来た。わざわざあれから俺たちを探し回ってたわけじゃないだろう」
「置き
心拍が上がり、指先に力が入った。平静を装って、つっけんどんに言い返す。
「返してくれるのか?」
「おい、何の話だ」
左側から声をかけられる。すると右側から別の民兵が出てきた。手には連弩を携えていた。リージェスは右手で彼を制しようとした。
「やめろ、リレーネに当たる」
テスの足許に転がる民兵が、朦朧としながら呻き声をあげた。
右手を強く払われた。痛みが走る。
「お待ちになって」リレーネが声をあげた。「この方は私たちから何かを奪いにきたのではありません。大切な話のようですの。まずはお聞きになってはいかが?」
「話はまずお前らから聞く。セレテス子爵が帰ってくる。お怪我をしたくなかったら手を上げな、坊や」
「セレテス子爵は俺の顔を覚えているかもしれないな」
テスが杖の民兵に目を向ける。
「お前はどうだ」半月刀を持つ左手は揺るがない。「俺はお前を覚えている。ミスリルがお前の足を折ったから」
何かを思い出したらしい。杖の民兵は鋭く息を吸い込んだ。その民兵とリージェスの真後ろに立つ男を残し、他の民兵たちが、左右からじりじりと前に出た。
「お願い事か? 坊や」
連弩を向けられても、テスは同様していないようだ。リージェスはいつでもリレーネのもとへ飛び出せるよう身構えていた。
「そうではないし、そうでもある」
「言ってみろ」
テスが口をつぐんだ。これ以上間合いが詰まると双方にとって危険だからだ。民兵たちも足を止めた。互いの覚悟を量る沈黙を、少女の歌声が緩めた。
耳慣れた旋律。星獣を呼び寄せる歌が、リレーネの口から放たれていた。意図の読めぬ歌は、民兵たちをたじろがせ、ついで注目を彼女に集めさせた。
「リレーネ、やめろ」
危機を感じ、リージェスは前のめりに身を乗り出した。後ろから強く腕を掴まれた。
歌は止まない。
「リレーネ! こんなところで歌ったって星獣は来ない――」
何か、音がした。
梯子が鳴ったのだ。腕を掴まれたまま、リージェスは上半身の向きを変えた。
僅かに見える梯子の頭が振動している。
真っ黒い手が出てきて、石床の縁を掴んだ。手が、もう一つ。次いで二本の腕が、何者かの上半身を持ち上げた。
リレーネの歌声から張りが消え、声も小さくなった。だが歌は続いた。歌に操られるように、肌のどす黒く変色した半裸の男が、痩せこけた体をテラスに現した。
さっきの病人だ。
ついぞ歌がやんだ。
「おい、お前、どうした?」
とりあえず、というように、民兵の一人が声をかけた。
「戻ってろ。な?」
男は爪先から向きを変え、歌い手、リレーネを見つけ出した。何かぶつぶつ呟いている。
「おい」
一歩踏み出した民兵は、たじろぐように動きを止めた。リージェスの耳にも病人の言葉が聞き取れるようになった。
こう呟いていた。
「会いたい……会いたい……」
風が強く吹いた。瞬きする間もなかった。不自然な強風で前髪が持ち上がるのを感じた直後には、その黒色は視界から消えていた。リレーネが短く叫ぶ。男の黒い肌の向こうに、テスの暗緑色の髪が見えた。半月刀が翻り、誰もが凍りつく中で、テスが男の喉を深く裂いた。
血は上がらなかった。テスは右手にも半月刀を握り、腰をよじり、大きく円を描いてとどめの一撃を振るう。首の太い血管や骨を断ち切る感触はなかった。だが、まるで粘土でも斬ったかのように、男の首がぽとりと落ちた。
首は、石床まで転がらなかった。切断面から伸びる真っ黒い管によって繋ぎとめられ、頭頂を下にして、左膝の辺りで揺れていた。
口が開く。
「会い、たい」
リレーネは全身に力を入れて、自分の拳を噛んでいた。テスは後ずさりながら尋ねる。
「誰に?」
途端に、最後まで色をとどめていた白目と虹彩が漆黒に塗り変わった。
リージェスは黒い背中を見ながら、事態を常識的に捉えようと努力していた。首に縄でもついているのか? だから落ちないのか?
「どうして斬った?」
咎めるような民兵の問いに対するテスの答えは明瞭。
「さっき俺が確認したときこの人は死んでいた」
「死んじゃいなかったさ」
「鼓動がなかった」
森だけがざわめき、木漏れ日だけが陽気だった。冷静さを保とうという各人の努力が、彼らが共通して吸う空気を膨れ上がらせていた。窒息しそうだとテスは思った。民兵の次の一言が、空気を破裂させた。
「鼓動がなくても、生きていたんだ」
「じゃあ」とリレーネ。「今もまだ生きていらっしゃるのかしら?」
それには、揺れてぶら下がる首が答えた。歌い始めたのだ。
星獣の暴走の歌だった。甲高い、だが男の声で、生きている者が歌うのとは違う節回し、違う音程、違う周波数で、だが確かに同じ旋律で歌った。
テスは屈み、先ほど上着で縛り上げた民兵の拘束を、半月刀で
テスもまた相対しながら後退する。最も気丈に振る舞ったのは、意外にもリレーネだった。
「お静かになさって」
口にしながら立ち上がる。
「おやめなさい!」
リージェスは、彼女が高貴な血筋の子女であることを思い出した。ついで自分の使命に気がついた。民兵たちがたじろいでいる間に、自ら
「会いたい――」
リレーネの手を取る。
叫び。
「――会いたい!」
「行こう」
梯子へ駆け戻ろうとした。眼前に、民兵が立ちはだかる。
木漏れ日が翳り、頭上を気配が覆った。命なき
岩肌を駆け上ってきたのだ。
星獣は異形の男の胸を蹴った。リージェスも、リレーネも、二人の逃走を阻んだ民兵も、男を見た。石床に倒れた男の首が、ついぞ胴体を離れ転がった。その首は自ら転がり、呻く。
「会いたい――会いたい――」
民兵たちは炎剣を抜き、または首に連弩を向けた。混乱の叫びをあげていたが、彼ら自身、自らの叫びに気付いていないように見えた。リージェスもまた、彼らと同じ状況に陥ったことがある。初めて人を殺したとき――。
『愛シ君
緑ノ岸ニ押シ寄セリ』
リレーネの歌が、茫然自失の状況からリージェスを引き戻した。
『帰リ来シ 君ノ姿ハ 波ノ花
死セル人ラノ生命ヨ』
浜昼顔の
何故、と考える。
あの男は、会いたい、と言った。
誰に。妻か、恋人かとリレーネは考えたのか。テスの声が聞こえた。
「逃げろ!」
自分を呼んだ歌が消え、立ち尽くしている星獣の脚の向こうに、黒い男の首が見えた。首から伸びた管のような物の正体を、リージェスは突然理解した。舌だ。舌から繋がる内蔵だ。それがシャツを着た民兵のむき出しの腕に巻きついている。その肌がたちまち黒く変じるのを見、恐慌に陥って、民兵は叫んでいた。他の民兵たちが、剣で首を突いて仲間を救けようとしていた。
緑色の光、テスの髪の光が視界を横切った。彼は出入り口を塞ぐ民兵に真横から体当たりし、道を開いた。
「行こう」
見ていたくなかった。リレーネの手を引いて導こうとする。だが、梯子の手前でリレーネは自ら手をほどき、民兵を組み敷いているテスへと駆け寄った。そして彼の右の二の腕に触れ、真剣な様子で告げた。
「あなたもいらして!」
どうするかと思っていると、テスは頷き、意気阻喪した民兵を捨て置いて走り出すと、梯子を使わず段差を飛び下りた。リージェスは少し迷ってから、リレーネを先に下りさせた。ついで自分が途中まで梯子を伝い下り、残りを飛び下りた。
テラスの騒動は続いていた。前を走るテスは、この天然要塞の二階部分の外廊下へと二人を先導し、内部の廊下から外廊下へ、闇から光へ出る直前、足を止めた。
振り向く。
「星獣を呼んでくれ」
その声は、穏やかで、話し方はゆっくりだった。深夜のコブレンで出会ったときのように。それからまた前を向き、外廊下へ飛び出した。
リージェスもまた、遅れがちなリレーネの手を引いて木漏れ日の海に飛び込んだ。光を浴び、リレーネが歌う。柱と柱の間を星獣が飛び下りていくのを見た。下から着地の物音。上からはようやく民兵たちが下りてくる。その足音が背後の廊下に降り立ったとき、まずテスが、廊下から星獣の背中の柵の内側へと飛んだ。
すっくと立った星獣の柵と外廊下の間の高低差は、ゆうに大人二人分ある。張り出した岩がないのを
リレーネもまた顔を上げると、リージェスの無事を確かめることもせず紅潮した顔で叫んだ。
「お掴まりになって!」
歌、そして暴走。
森を飛び、土の上を駆ける星獣の背から、真紅の髪の男を筆頭とする一団を見た気がした。それがセレテス子爵か確かめる余裕もなく、リージェスは伏せたまま目を閉じた。土埃が目に入るのだ。
時の感覚は失われた。それでもリレーネの喉が涸れ、暴走が終わる時がきた。あとは明るい森を、星獣が穏やかに行くのみとなった。
軋む柵の中で、リージェスとリレーネ、そしてテスの三人は、離れた隅で身を起こし、座り込んだ。三人ともが事態の展開に呆然としていた。互いに聞きたいことが山ほどあるはずなのに、今は何も知りたくない気分だった。
心地よく揺られながら、リージェスはなんとなく口にした。
「さっきゼラ・セレテス子爵がいたな」
テスが相槌を打つ。
「ああ」
「セレテス子爵の顔を知っているのか」
「会ったことがある。お前たちがコブレンに置いていった『月』のことで」
コブレンを出て以降、砕けた『月』が再生しなくなったことをリージェスは思い出した。リレーネは疲れて黙りこくっている。
リージェスはテスを睨んだ。
「『月』はどうした」
テスはどこも見ていないようなぼんやりした目で、「それはまた失われた」
「どういう意味だ?」
答えはなかった。
どこかで
「歌えるか」とリレーネに尋ねた。「あの鳶がいるほうに行ってほしい」
「どうしてですの?」
「安全な場所を教えてくれているんだ」
真昼の森の静けさに、あれは俺の鳥だ、と、テスは呟いた。