深い溝
文字数 2,610文字
「しばらく、ってどれくらいだ」
見つけ出した教会のポーチを上り、その扉に手を添えた状態で、テスはポーチの下のリージェスを振り向いた。蹴られた腹がまだ痛むのと不機嫌のせいで、眉根を寄せていた。
「判断は任せる」
腹が痛むのに、テスは自分の教派の教会に行くと言い張った。しかも場所を知っているわけでもない。言い伝えと、教会を建てる際のしきたりから場所にあたりをつけ、昼過ぎから探し始めた。
日はみるみる沈んだ。早すぎるのではないかと思うほどだった。リージェスがつきあったのは、リレーネがテスを一人にするなと強く主張したからだ。怪我をしたテスを一人で市街に出すのなら、私が彼についていく。そう言われてリージェスがじっとしているわけにはいかなかった。
夜になり、家の灯は一つまた一つ消えていく。やっと目当ての場所を見つけ出したとき、テスはこう言った。しばらく待っても俺が出てこなかったら先に帰ってくれ、と。
「任せるだって?」
テスは口から唾を飛ばすリージェスの向こう、坂の下に、夜の港を見た。火を焚いて、漁師たちが夜の漁に出ていく。一つ、また一つ、止まらない血のように、炎が港から沖へと鋭角三角形を描いて海に流れ出ていく。水平線が、真白く輝く天球儀を呑み込んでいた。海面に白色光が散っていた。遠目には、波は低いように見えた。
それらの光を後ろから浴びるリージェスは、やけに老け込んで見えた。テスは思う。俺も同じはずだと。
「用事を済ませてさっさと出てこい」
リージェスは吐き捨てるし、テスはテスでつっけんどんに言い返す。
「一人にさせてくれ」
「俺が何のためについて来たかわかってるのか?」語気が荒くなる。「何のために足を棒にして歩き回って、しかも一日中だ、一日歩き回ったのは誰のためだ? わかってるのか?」
そんなことは頼んでないと言われたら、リージェスは今度こそテスを殴ると決めていた。俺がどういうことを言っているのか考えろ。考えてくれ。お前は今までずっとそう振る舞って生きてきたのか? お前の仲間はそれを許してきたのか? お前の世界に他人はいないのか? ああ! いないんだろうな、クソが。
テスが口を開く。荒れてめくれた唇の皮に、自分のことしか見えない人間に特有の冷淡な苛立ちがざわめいていた。それゆえに、黙っていてもうるさい奴だとリージェスは思う。
言ってみろ、さあ。俺はお前が大嫌いだ。
テスは言った。さすがにリージェスの想像した通りの答えではなかったが。
「俺を憐れまないでくれ」
「憐れむ?」
これはいささか意外だった。そんな発想に至るほど被害妄想に陥っているとは。
憐れんでなどいない、と言うことは簡単だった。一人で放り出してトラブルを起こされたくないだけだと。
言うことはできた。
だが、驚くような黒い閃光が内なる目の前で輝いた。
――こいつに嫌な思いをさせてやりたい。
その思いの閃光は、見なかったことにはできないほど強烈だった。
「憐れんで当たり前だろう。惨めな奴だからな」
テスの目が焦点を結んだ。
だが、
「俺を憐れむな」テスは重ねて言った。「お前は神か?」
「そうだと言ったら?」
さあ、俺を見ろ。しっかりと俺を見ろ。たまには話している相手のことぐらい認識したらどうだ。不都合な相手を。
口に出したいほどだった。捲し立ててもいい。お前は自分自身と話してるんじゃない、俺と、他者と話してるんだ。わかるか?
だがテスは、ついぞリージェスを見なかった。
「帰ってくれ」
テスはテスが求めていた扉と向き合う。リージェスに背を向けて。
リージェスは拳を握りしめ、けれど、拳が振り上げられることはないと彼自身が一番よくわかっていた。教会の鍵は開いていた。その暗闇にテスは姿を消し、聖所の壁によって、二人は隔絶された。
※
内部は、異端ではない個人の礼拝所のように偽装されていた。祭壇では
留守預かりの人間を呼ぶ方法は、教派内で共通している。テスは
ずしりと重いのは、台座の素材のせいだ。
それで、叩きつけるように二度、祭壇を打った。ドン! ドン! 鈍い音が響き渡る。誰も出てこないかもしれない、と思ったが、すぐに上階で戸を開け閉めする音がした。
テスは内陣から降りて、最前列のベンチに座り、
その人が警戒しながら入ってくるのを待ち、顔を右に向けて、さも初めて気がついたように立ち上がった。
礼拝所に入ってきたのは、カンテラを下げた女だった。室内着の上からケープを羽織り、灰色の髪が垂れ下がる顔は皺が深く、苦労が刻まれていた。
テスは老境の女に一礼した。
「夜分に申し訳ございません。コブレンから参りました、マリステス・オーサーと申します」
「コブレン自警団の方?」
質問の形を取りながらも、わかっていると言いたげだった。
「はい」
見習いたちが走ったなら、ここにも自警団からの連絡が届いているはずだ。
「私宛ての書状は届いておりませんでしょうか」
「大地の加護があなたに」
女がしゃがれ声で言い、右足を後ろに下げて一礼した。テスも左足を下げて一礼する。
「同じく、あなたにも」
二人の異端の信仰者の間で空気が緩んだ。
「もう一度お名前を頂いてもよろしいかしら?」
「マリステス・オーサーです」
「ええ。確かそんなようなお名前だったかしら」
待ってらして、と、女は入ってきたのと同じ戸から出ていった。二階に上がり、果たしてグザリア・フーケからの書状を持って降りてきて、テスに渡した。
受け取ったテスは、一人になるとミスリルと同じように
読んでしまった。